最後の短篇企鵝の剥製

読んだ短篇についての雑な覚書を書くペンギンは絶滅しました。本博物館では、在りし日のタンペンペンギンの姿を剥製によって留めています。

Kevin Wilson, "Scroll Through The Weapons"(2015)

カラヴァッジョっぽくしてくれっていったのにあんまりカラヴァッジョっぽくならなかった戦うペンギン

概要

・第二短編集『BABY, YOU’RE GONNA BE MINE』から。初出は Ploughshares で、発表当時のタイトルは “An Arc Welder, a Molotov Cocktail, a Bowie Knife” 。
・恋人の姉妹が夫を刺して逮捕されたと聞かされた語り手が、両親不在となった子どもたちを保護するためにかれらの家へと向かう。そこには壮絶なネグレクトの痕跡が満ち、子どもたちは野獣のように暮らしていた。語り手は世話と家の掃除を行いつつ、こどもたちを引き取る方法を模索する。

あらすじ

語り手のタトゥーアーティストのカムが、ある晩、恋人であるサシーの姉妹がケバブの串で夫を刺して逮捕された聞かされる。ふたりは車を飛ばして残された子どもたちを保護する。
十四歳の長女、十歳の次女、八歳の長男、五歳の次男からなる四きょうだいはめちゃくちゃな環境で暮らしていた。住居はとにかく不潔で尿のにおいが充満しており、廊下には眼に膿が溜まった仔猫たちが闊歩し、キッチンにはなぜか人間大のグレープソーダの水たまり(かたまりかけ)ができており、家中壊れたゴミにあふれている。
そんな壊れた家で、長女は一日中ゾンビの出現する終末世界を舞台にしたゲーム(ルートシューターっぽい)に熱中していた。彼女はしょっちゅうゲーム中にポーズをかけ、雑多なアイテムあふれるインベントリから少しでも有利な武器な選ぼうとする。カムは「実人生では正しい武器を見つけるまで時間を止めておくことはできないよ」というが、長女は「だからゲームで練習してるんじゃない。鍛え終わったら、海兵隊に入ってスナイパーにでもなるよ」とうそぶく。
カムとサシーはこどもたちの面倒を見つつ、家をきれいにしようと掃除や洗濯をはじめる。「迷彩柄のジャンプスーツを着た動物のようで、人間としてなりうるかぎりの野生を獲得してい」るこどもたちの世話に手をやきながらも、カムはこどもたちに情が移り、自分たちの家で面倒を見たいといいだす。「この家全体をきれいにするなんて無理だ」と。だが、サシーは「あの子たちが自分たちの家でやっているようなふるまいを私たちの家でやってほしくない」と渋る。
退院した父親が帰宅して「仕事に復帰できるまで知人の家で過ごす」と子どもたちを残してすぐに出ていった夜、カムはゲームで適当な武器を見つけられずドツボにハマっている長女の姿を見て、「彼女はどんな邪悪なことよりも強くありたかったんだ」と悟る。「そして、その願いは叶うことがない」とも。
長女曰くそのゲームは「世界でいちばん難しいゲーム」であり、ネットで入手したいろんなチートコードを試しても歯が立たないという。
「どうしたら攻略できるの?」とカムは訊く。
「殺されなきゃいい」と長女は答える。
「それだけ?」
「たぶん」
それを聞いたカムは、こう考える。「その攻略法はぼくにとって納得いくものだった。死と腐敗に囲まれ、ものごとがよくなるという希望を持てないなかで、望めることは同じ結末を繰り返さないことだけだ」。
そして、長女に対して「走れ」と助言する。「あいつらと戦うな。できるだけ早く走れ」
長女は半信半疑ながらもそのアドバイスに従い、見事にゲームをクリアする。そのときの表情にカムは初めて晴れやかなものを見る。ハイタッチで喜びをわかちあおうとするが、長女は拒んですぐにゲームを再空きする。
カムは思う。「こうなるだろうとわかっていた。自分を苛むやつらを倒したとしても、自分の安全を確保せずにはいられないのだ。」
そして、浴室(汚れたバスタブを洗浄してベッド代わりに使っていた)へ行き、サシーから子どもたちの母親が書類を用意していないせいで、カムたちはこどもを引き取ることができないと聞かされる。かれらはどこかの施設にでも預けられるだろう。
「世界はぼくたちをめちゃくちゃにしようとしてきて、ぼくらは手に入る武器すべてをそんな世界へ向けて突き刺す。ありとあらゆるものを武器にかえて、『おまえたちが幸せになることなど永遠にない』とささやき屈させようとしてくるなにかから自分たちを守るのだ。」

感想

・第二短編集のトップを飾る短篇。第一短編集に見られたようなマジカルな要素がなく、一種文学的な意味でのダーティ・リアリズム*1的な雰囲気が見られる。
・ネグレクト家庭を題材にした、かなり陰鬱なお話。カムとサシーはかれらなりに物事をよくしよう、子どもたちを救おうと努力するんだけれど、それらは世界の残酷さに阻まれてしまう。四きょうだいの長女はゲームを通して自分なりにそうした「この世でいちばん難しいゲーム」である人生の圧力に抗しようとする。目についたものをすべて武器にして、戦いつづける。それが、語り手によって「戦うのではなく走れば」と助言されてそれでゲームをクリアすることができるのだけれど、すぐにまたゲームの世界へと戻っていく。
 メタフォリカルといえばこれほどメタフォリカルなビデオゲーム描写はなくて、直接的すぎるきらいはあるのだけれど、それでも「走れ」のくだりはエモくてよい。
・作中で出てくるゲームはルートシューターだとおもわれる。一人称視点のシューティングだが、RPGのようにレベルや細かい装備品の概念があり、敵のドロップする武器をより強いものへ都度都度選別していく。「『これ』って『人生』だよね?」と気づいてしまえるのは、ゲーム小説を何本もものにしてきたウィルソンならではか。
・困難な人生から逃避するためにその困難な人生の映し鏡みたいなゲームやってさらにつらくなるのっておかしくない? とおもうひともいるかもしれないけれど、こういうことは実際にあって、たとえばNetflixのドキュメンタリーシリーズ『偽りなき偽りのデジタル社会』の第一話では(詳細は省くが)「ゲームと銃に育ての親を殺された少年」がそのトラウマティックな体験から逃れるためにシューティングゲームに没頭する。ゲームと現実の違いはいかなる困難であってもゲームのほうには攻略法があることで、そういうことが救いになるのかもしれないが、それよりなにより俯瞰した視点から模造された世界へ没入できるといった点がかれらには重要なのかもしれない。
・サシーがバスタブ掃除して寝床に使ってるのもかなりよくて、最後は「明日は大丈夫」「でもあの子たちは大丈夫じゃない」「そうかもね」と会話した後でカムとサシーがバスタブのなかで抱き合って終わるんですよね。よくないですか?
・家の崩壊具合が壮絶。家族のすむべき「家」が壊れてしまっているというのはアメリカのコンテンツで頻出するモチーフで、語り手はそれをなんとか直そうとするんだけれど、どうがんばっても「三割程度」しかよくならない。手に余る。かといって自分たちの家(ふたりぶんのベッドしか無い)は子どもを四人も育てる場所ではない。いったいどうすればいいのか。どうしようもならない。どうしようもないのだけれど、それでも生き延びていかねばならない。ケヴィン・ウィルソン的な世界観が色濃く出ている一篇。
・ずっとネット発表の1000ワードくらいのケヴィン・ウィルソン作品を読んできたのでひさびさにまともな長さの短編読まされると長っ! っておもっちゃうよね。