最後の短篇企鵝の剥製

読んだ短篇についての雑な覚書を書くペンギンは絶滅しました。本博物館では、在りし日のタンペンペンギンの姿を剥製によって留めています。

ビデオゲームにとってストーリーテリングとはなにか?――『A Mind Forever Voyaging: A History of Storytelling in Video Games』- Dylan Holmes

■0.著者紹介と概要

本の出版は2012年。著者の Dylan Holmes は1988年生まれ。2010年代前半に Nightmare Mode や Gamastra などのウェブ媒体のゲームジャーナル/ブログでライターとして活動した後、2010年代後半から公立図書館の司書に落ち着く。もうゲーム記事の寄稿はやっていないようだが、自らのサイトでは現在でもたまにゲームについてのオピニオンを執筆している模様。
(著者サイト。本書がpdfやepubで無料配布されております)
Augmented Vision - Augmented Vision 2.0
(Nightmare Mode のアーカイブ
Nightmare Mode [Archived] | Nightmare Mode Archive

・ゲームの「ストーリーの内容」(WHAT)ではなく、「ストーリーテリングの方法」(HOW)に焦点を当てたゲーム評論エッセイ集。主な対象となっているのは1983年〜2010年にかけて発表された13作品。
・本書のイントロダクションでも述べられているように「ゲームの影響力の増大と経済的影響力には多くの注目が集まっているが、ビデオゲームを、物語を語る(storytelling)ためのエキサイティングな新しいプラットフォームとして検証した本は数えるほどしかない」。それは本書から12年を閲した現在でも変わっていないように思われる。自分が興味を抱いたのはまさにこの点で、「ストーリーの内容」やコンセプトを分析したり、そこに現実社会を反映させた文脈を読みこんだりする本はいくらでもあるけれど、「ストーリーテリング」について焦点を当てたものが欲しかった。そこにスルっと入ってきた感じ。*1
・一見、異なるジャンル同士の作品でもストーリーテリングの作法のようなものが相互に影響しあっている。それは「没入感」という西洋のゲームが追い求めてきた志向が背後で一貫しているからかもしれない。翻訳するには今更古くなりすぎてしまった本かもしれないけれど、現在からゲームの発展を俯瞰して読むと「答え合わせ」ができるぶん、けっこうおもしろい。BG3の出現でホットなトピックになっている「西洋のRPGは何を追求してきたのか?」も、かれらの問題意識がCRPGオープンワールドだけでなくさまざまな分野で試みられてきたのだと読み取れる。
・主なキーワードは「映画的(Cinematic)」「没入感/没入的(Immersion/immersive)」「現実感(Realism))「キャラクターの死」「選択と結果」「リニア/ノンリニア」「個人化(personalize)」「ダイアログ(dialog)」など。
・チョイスされたゲームのほとんどは作者がリアルタイムに体験できた作品で、そこに主観性が入り込んでいることは著者自身も否定しない。実際に著者の個人的な回想や思い出が文中にちょくちょく顔を出してくる。そういう意味ではアカデミック・ライティングや批評とはやや距離を隔てているが、そのほどよいパーソナルさが心地よい読み味につながっている。
とはいえ、 story/narrative という用語に関しては(イントロで自分なりの定義を試みているとはいえ)やや一面的すぎるところもあるというか、そのへんは読んでいて注意が必要なのかもしれない。


(追記:松永伸司先生からの指摘。不勉強でした。)
・以下テキストの要約。本書からの直接的な引用はカギカッコ内でくくります。自分の感想や補足などは注釈欄に書きます。
・ちなみに2012年出版であるため、「現在の」とか「今日の」といった場合はだいたい2012年当時を指します。

■イントロ

・問題意識:「本書は、物語を制約するためではなく、物語を発展させるためにインタラクティビティを利用したアーティストたちの記録である 。本書に掲載されているゲームはどれも、他のメディアからストーリーテリングのテクニックを借用している」「インタラクティブ性を使って何をするのか? インタラクティブ性は選択するという行為、 ナラティブに影響を与えるという行為を、どのように面白くしているのだろうか?」
・用語の説明「(本書において)物語(story)とはプレイヤーの介入する前から存在した予定されたりしていた出来事の連続として参照される。ナラティブ(Narrative) とは、最終的な成果物(end products)、ゲームの特定の形式内で展開される一連の出来事の現前として参照される」*2

■1.The Adventure Begins: The Secret of Monkey Island(1990)ーーアドベンチャー・ゲームの発展史


アドベンチャーゲームの歴史が語られる*3。だいたい、テキスト・アドベンチャー→グラフィック・アドベンチャー→ポイント・アンド・クリックといった流れ。
 ・1975年に最初のテキストアドベンチャー*4、『colossal cave Adventure』(単に adventure とも)がARPAnet上でリリースされた。行動(動詞)や対象(名詞)を文字入力してアクションを行う形式。多くのフォロワーを生み、77年にはファンタジー冒険要素を足した『Zork』が誕生。
 ・テキストにグラフィック要素を足したグラフィック・アドベンチャーは1980年の Roberta Williams の『Mystery House』が始祖。汎く知られるようになったのは84年の『King’s Quest』から。コマンドが入力式なのは変わらず。*5
 ・グラフィックの表示された画面をクリックすることで移動したり探索したりするポイント・アンド・クリックのフォーマットは85年にDeja VuICOM Productions)が導入*6。行動の動詞も選択式で「動詞を推測する」という入力方法のわずらわしさからプレイヤーを解放。*7
 ジョージ・ルーカスが設立した Lucasfilm Games *8は当初アクションゲームを作っていたがすぐにグラフィック・アドベンチャーへと移行し、1987年に『Maniac Mansion』を制作。この作品は Deja Vu のようなポイント・アンド・クリックのインターフェイスを具えていた。コメディ風味が加えられたところにそれまでの同ジャンルの作品と比べて新味があった。同作のリード・デザイナーだった Ron Gilbert はティム・パワーズの『On Stranger Tides』をベースに、プログラマーの Dave Grossman と Tim Schafer の力を借りて1990年10月に The Secret of Monkey Island をリリース。

The Secret of Monkey Island(Lucas Arts)

・Monkey Island は”Cinematic games”というムーブメントの第一波に属すとされる。シネマティック・ゲームズは80年代中盤にはじまり、Cinemaware社(1985-91)の諸作やスクウェアの『ファイナル・ファンタジー』(1987)などが著名。開発者たちはゲームという媒体にはナラティブの力や映画的な複雑さが欠けていると認識し、ゲーミング空間に映画的な要素を取り入れた。Monkey island ではカットシーンが挿入され、そこでは映画的なショットやカメラワークが頻出する。ズームが多用され、クレーンショットのような場面も出てくる。しかしシネマティックなカットシーンは逆に非カットシーン部分との差が没入感を削いだ。
・モンキーアイランドで重要なのは対話(dialog)。選択式会話(dialog tree 的なもの)を採用した初期の例。
 ・選択肢の3つの例。1つ目、exploratory dialog。選択肢ごとに異なった情報を与えられるが、結局は大筋の変化には影響しない。2つ目は、false choice。それを選ぶと進行がストップする。多くの場合、ひとめで文脈が外れているわかるトンチンカンな選択肢だったりする。3つ目は、decision-making タイプ。これは選択肢が直接ストーリーの変化に影響する。このタイプはプレイヤーが自分の行動が評価され世界に重要な影響をもたらしている(実は大して変化してなかったとしても)と感じ、最も盛り上がるが、変化に伴う開発側の作業量が増えるのであまり作中に多くは置けない。Monkey Island でも多くはない。
・「Moneky Island がゲームに与えた最も原理的にラジカルな貢献はこれだ。『プレイヤーが死ねない』こと」(p.18)
 80年代の(アーケード)ゲームは死が不可欠だった。なるべく早くプレイヤーを殺し、次のコインを投入させることが儲けにつながったからだ。だが、ギルバートはその死を切り捨てた。アドベンチャーゲームにおいて死による中断は「不信の停止(the suspension of disbelief)*9」を失わせ、プレイの快適感を阻害するとみなした。
・Monkey Island の死のない世界はコメディっぽい雰囲気にあっており、全体にポジティブな雰囲気を与えている。一方でプレイヤーに進行を促すための「アメ」として頻繁にジョークが挿入される。
・(テキスト・アドベンチャーに取って代わった)グラフィック・アドベンチャーは90年代初頭から10年ほど成功を収めた*10が、その後はゲーム業界全体のグラフィック技術とそれを用いたゲームデザインの発展によって商業的に落ち目になった。識者やパブリッシャーからも「死んだ」と宣告されていた。
ルーカスフィルム・ゲームズはモンキーアイランド発売後、ルーカスアーツと改名。ライバルである Sierra On-Line『(King’s Quest』のメーカー)とともに90年代のシーンを盛り上げた。だが、90年代後半になると潮目が変わってアドベンチャージャンルの売上が減少。1998年の『Grim Fandango』(開発者はティム・シェイファー)が批評的成功に関わらず目に見えて売上が低かった。
・このころはよくネットフォーラムで「良い物語を読みたいなら小説読むわ」といったアドベンチャーへの批判的言説がみられた。アドベンチャージャンルの蓄積ができるにつれて、劇中のパズルがプレイヤーたちにとって易化し、開発側はパズルの難易度をどんどん上げざるをえなかった。その結果、パズルが無駄に複雑化し、邪魔な要素として感じられがちになった。1999年に『Gabriel Knight 3』を評したゲームライターの Erik Wolpaw はそのパズルの無意味な煩雑さを指摘し、「誰がアドベンチャー・ゲームを殺したのか? 言うまでもなく、アドベンチャーは自殺したのだ」と書いた。
・Lucasarts は2000年に Monkey Island シリーズ四作目となる『Escape from Monkey Island』を最後にアドベンチャーから撤退。その後、元ルーカスアーツ社員たちが2004年に Telltale Games を設立。ちょうど、Xbox Live Arcade など、大手パブリッシャーを介さず、デジタルコピーをユーザーに直接ゲームを届けられるデジタル・ディストリビューションが注目されだしたあたりだった。
・Telltales 社はアドベンチャーゲームを映画ではなくテレビドラマに見立て、エピソード単位で作品を販売した。ルーカスアーツで作っていた『Sam & Max Hit the Road』(1993年)の続編をひと月ごとに三、四時間くらいの単和エピソードで配信。*11ギルバートらも2009年に五話シリーズの『Tales of Monkey Island』を発売し、Telltales でも最高の売上を記録。グラフィックアドベンチャー需要の健在を証明した。*12

■2. Can a computer game make you cry?: Planetfall(1982)ーーゲームは「死」を描くことができるのか?

・1982年、Trip Hawkins はエレクトロニック・アーツを設立した。*13エレクトロニック・アーツは、後にサードパーティ最大のゲーム開発会社となるスタジオである。彼らは「ゲームはアートである」というテーゼを推進するため、ある広告を出した。それが can a computer game make you cry?

・内容はこんなかんじ。「なぜ人は泣くのでしょうか? なぜ笑ったり、愛したり、微笑んだりするのでしょうか? 私たちの感情の試金石となるのは何なのか? これまで、このような問いを立てるひとびとは、ソフトウェア会社を経営するような人たちではありませんでした。作家、フィルムメーカー、画家、音楽家などがその役目を負いました。彼らは伝統的な意味での芸術家なのです。私たちはその伝統を変えようとしています。私たちの会社の名前はエレクトロニック・アーツです。​」
・その年のうちに、Infocom(1979年設立)という小さな会社がその広告に挑戦するようなゲームを出した。 『Planetfall』である。

Planetfall(infocom)マジでテキストしかない。それがテキストアドベンチャー

・Planetfallのあらすじ。宇宙船事故に見舞われて不時着した惑星、そこには文明の痕跡があった。プレイヤーは現地文明滅亡の謎を追いつつ、脱出のための手段を探す。
・「『Planetfall』についてまず特筆すべきは、テキストベースのゲーム(第一章で言うところのテキスト・アドベンチャー)でありながら、当時のグラフィック志向のゲームを遥かに凌駕する環境ディテールや描写力を備えていることだ」*14「グラフィカルなゲームは、抽象的な環境しか正確に表象できなかった。実世界の場所をエミュレートしようとすると、平坦になりがちだった(ように見えた) 」
・『Planetfall』の特徴は、プレイヤーの死ぬ頻度の高さ。行動をミスると簡単に死ぬうえ、空腹状態と疫病(惑星の文明を死滅においやった原因)のふたつの障害も立ちはだかる。その容赦のない難易度は当時から有名だった。自然、プレイヤーはセーブ&リロードを多用することになる。そのたびにナラティブ体験は中断を余儀なくされるため、著者曰く、「プレイヤーの死やセーブ、ロードが頻繁に発生するゲームでは、『純粋な』ナラティブ体験や不信の停止は不可能だ」。
・バリー・アトキンスは『More than a Game』(https://library.oapen.org/handle/20.500.12657/35033)という著作の中で、コンピューターゲームをテキストとして扱い、プレイヤーの死の問題に焦点を当てている。「アトキンスはビデオゲームの基本構造がプレイヤーのナラティブ体験と対立する、よくある状況のひとつを強調している。セーブとリロードはゲームの世界の中ではまったく意味をなさないが、(その外にいるプレイヤーにとっては)死の存在を説明するためには必要な機能である。プレイヤーに一つのライフしか与えないゲームは少数の熟練したプレイヤーしか完走できない。脚本化されたストーリーを語ろうとしたり、 幅広い観客を巻き込もうとする場合は、何らかのリトライ機能を許容しなければならない」。
・ゲーム的な挑戦の結果もたらされる死は、切れ目のないストーリーテリングを阻害する。このジレンマを解決するため、現代のゲームでは死の頻度を減らし、プレイヤーをより快適にする選択を取っている。
・『Planetfall』にはフロイドという有名なキャラがいる。途中で出会うロボットだ。プレイヤーのコンパニオンとして感情豊かに振る舞うオトボケキャラ。「フロイドの不思議な点、そしてNPCとして2番目に重要な突破口は、彼がプロットにまったく必要でないということだ」。「フロイドの存在は、そのキャラクターの魅力によってのみ正当化される」。
・「『Planetfall』はフロイドを、プレイヤーが愛情を感じるような、非常に好感の持てるキャラクターとして確立することに成功した。当然、彼は死ななければならず、 その死はゲーム史上初の(プレイヤーの)涙の記録となった」
・ゲームの後半、ゲームの進行に必要なアイテムを入手するため、フロイドはプレイヤーの囮になって致命傷を追う。そして、そのプレイヤーの腕の中でフロイドはけなげなセリフを吐きながら死(というか停止)する。感傷的で劇的な場面。
・デジタルメディア研究者であるジャネット・マレーも『Hamlet on the Holodeck』(邦題『デジタル・ストーリーテリング―電脳空間におけるナラティヴの未来形 』)の中で、フロイドの死に触れ『ゲームが挑戦的なパズルから、喚起的な演劇体験へと変化する......フロイドの死は、ゲームがパズルから表現力豊かな物語芸術へと進む道における小さなマイルストーンである』と述べている。
・「ゲームの分野では、このようなことはかつてなかったことであり、フロイドの死でプレイヤーが涙を流した例は数多くある」
・フロイドはクリア後に復活するのだが、それでもプレイヤーにショックを与えた。『Planetfall』はプレイヤーとの感情的な結びつき(本作の場合は親密さと喪失感)を与えられると証明した。それは(現在の欧米のゲームでは忘れられがちな)テキストと文章技術の勝利でもあった。
・80年代の終わりにインフォコムは解散。技術の進歩によりビデオゲームにグラフィックと音がつくようになった。「しかし、テキスト・アドベンチャーは死ななかった。1993年 、グラハム・ネルソンは、誰でもインタラクティブ・フィクションを制作できるプログラミング言語 inform を開発し、無料で配布した。多くの作家がこのフォーマットに群がり、インターネット上で次々と無料ゲームをリリースした。2000年代初頭、私はこうした人々の努力の成果を通して、インタラクティブ・フィクションというジャンルを知った。商業的なゲームのシナリオにいささか燃え尽き気味だった当時、これらのゲームは新鮮な息吹を与えてくれた」*15

■3.Moral Gaming: Ultima IV(1985)ーーゲームは道徳を体現できるのか?

Ultima IV (Origin Systems)

・『ダンジョン・アンド・ドラゴンズ』とTRPGは偉大であり、多くのビデオゲームの基盤のひとつとなっている。1981年にリリースされた初代『ウルティマ』と『ウィザードリィ』もそのうちのひとつ。これらはTRPGのプレイを参考にしており、ダンジョン探索をするためのパーティの運営に焦点がおかれ、ストーリーやキャラは希薄だった。そのパラダイムを変革したのが『ウルティマIV』のメイン開発者で〈ロード・ブリティッシュ〉(『ウルティマ』シリーズの舞台となるブリタニアの支配者であるNPCの名前でもある)の愛称で知られるリチャード・ギャリオット
・『ウルティマIV』は開始時にプレイヤーにむりやり歴史書を読ませる。そして、ジプシーの占い師に出会い、道徳的な事柄に関する質問をいくつか投げかけてくる。それらへの回答がプレイヤーのクラスに影響する。それまで任意で決められたクラスが、プレイヤーの内面と直結するようになった。
・「結果が伴わなければ、選択に意味はない。前章で述べたように、これは通常、死ぬか死なないかという形をとる。RPGではもっとニュアンスが異なる場合が多いが、すべての決断は最終的にこの枠組みに結びつく。例えば、より多くのゴールドを得ることでより良い装備を買うことができ、モンスターとの遭遇を生き延びる可能性が高まる。『ウルティマIV』では、生存競争とはまったく別に、あえて選択に道徳的な意味を持たせている。『これは賢明か?』と問うことに慣れていたプレイヤーは、今度は 『これは正義か?』と問わねばならない…(中略)…『ウルティマIV』は、そのモラルの推進力をデザインのあらゆるレベルで実装することに成功したため、より革命的な作品となった。」
・アドベンチャーではプレイヤーの行動とそれによって起こされる物語的表象はあまりコンフリクトを起こさない。だが、盗みや虐殺がプレイヤーの有利に働くRPGではそこにズレが起こることになる。ゲーム攻略面で効率的な合理性が、物語的な一貫性と相反していくのだ。
・『ウルティマIV』の導入はかなりユニーク。前作でラスボスを倒して世界から悪を排除し平和を取り戻したものの、ロード・ブリティッシュからそれだけでは十分ではないと言われ、「この国には道徳的な指導者、人間性の輝ける光、8つの美徳を体現する人物が必要」と「慈悲、誠実、武勇、正義、名誉、献身、霊性、謙譲を体現し」ろと要請される。道徳的な英雄になることがプレイヤーの目標となる。これらの道徳的な目標を達成するための具体的な行動は指示されず、たとえば「謙譲」を獲得するためにはプレイヤーはプレイを通して自発的に謙虚さを体現しなければならない。戦闘なども用意されてはいるが、戦うことに本質はない。
・徳システムはそれまでゲーマーが慣れ親しんだ攻略上の合理性(著者は「パワーゲーミング」と呼ぶ)に反する。「たとえば、私はプレイをはじめてすぐにロード・ブリティッシュの城で秘密の宝物庫を見つけた。そこに金塊でいっぱいの宝箱が15個もあり、私はすぐさま飛びついた。RPGアドベンチャーゲームでは、『汝、釘付けにされていないものはすべて拾うべし』という戒律がある。それから間もなく、私は自分が非常に不名誉な人物だと人々からみなされていることを知った。私は国王から盗みを働き、ゲームを始めたときよりもさらに正直者の地位から遠ざかっていた。2010年に遊んだときでさえ、私はショックを受けた。 誰もそれが悪いことだとは教えてくれなかった。王様の金を奪ったら大変なことになるなんて、どうやって知ればいい?」
ウルティマの徳を測る仕組みは単純で、0-99まで値が設定された8つの特質がそれぞれ特定の行動を取ることで増減していく。その基準はときに不明瞭。「謙譲」はNPCとの会話で謙虚さを示す選択肢を取ると上がるなど比較的わかりやすいが、悪のキャラを倒すと上がる「正義」の場合、どのキャラが悪でどのキャラがそうでないか明示されないためわかりにくい。たとえば、オークやダイオウイカは悪で、コウモリやヘビは悪ではない。そして、「誠実」を上げる唯一の手段は盲目の薬売りと取引する時に適切な額を支払うこと。そのためニンニクをひとかけらずつ25回連続で買うといった奇妙な状況も発生する。「要するに、本作のモラル・デザインは直線的である」。プレイヤーにとっては美徳のシステムは単にプレイの障害物になりがち。
・さまざまなメディアに存在する「型」を分類するウェブサイト TV TROPES では『ウルティマIV』のモラル・システムを「カルマメーター」と名付けている。このカルマ・メーター・モデルは今日多くの西洋式RPGJRPGと対比する意味での)に取り入れられている。*16これらのシステムは選択の過程でなるべくプレイヤーに対するジャッジを避けていて、どちらかの道がもう一方より優遇されているわけではない。『ウルティマIV』の轍をふまぬよう、プレイにおけるフラストレーションを軽減している。しかし、著者は不快感や自責の念を与えることを恐れず真に倫理的な難問をプレイヤーにつきつけるゲームもあるべきでは、と提起する。*17

■4.Immersive Sim: System Shock(1994)ーー〈イマーシブ・シム〉の誕生

System Shock(Looking Glass Technologies)

・初期のコンピュータ・グラフィックで作られたゲームには横視点か俯瞰視点の作品しかなかったものの、73年の『Maze War』*18でははやくも一人称視点の模索が始まっていた。*19
・ゲームを一人称で表現する理由。臨場感と、アバターと一体であるという没入感。
・アタリの『バトルゾーン』(1980)ではワイヤーフレームで表現された空間での一人称戦車シューティング。だが、ワイヤーフレームはあまりにも簡素で抽象的であり、視覚的なリアリズムに欠けた*20。一人称視点の本格的な開花はグラフィック技術の向上する90年代を待たねばならなかった。ウルティマのスピンオフである『ULTIMA UNDERWORLD』(1992)が先駆となり、『ウルフェンシュタイン3D』(1992)と『DOOM』(1993)が一人称シューターのジャンルを確立。そんななか、『ウルティマアンダーワールド』の開発会社であるルッキンググラス・スタジオが94年にリリースしたのが『System Shock』。
・『System Shock』の概要。主人公は2072年のサイバーパンク世界のハッカー。「ストーリーは、(人類を支配しようとする邪悪な人工知能)SHODANと対テロコンサルタントであるLansingからのEメールと、ステーション内に散在するログによって展開される。プレイヤーは探偵の役割を担うことになり、SHODANにまつわる一連の出来事と、ログに登場する多くの登場人物の運命をつなぎ合わせようとする」
・断片的なストーリーテリング。「たくさんの会話の選択肢をクリックしても、会話という感じはあまりしない」と会話機能とダイアログツリーの限界を感じたプロデューサーのウォーレン・スペクターとデザイナーのダグ・チャーチは、『ウルティマアンダーワールド』で使われたシステムを改良しはじめた。苦心の末、「本物の人間と話していると思わせることができないのなら、ゲームの世界に人間を登場させなければいい」と結論づけた。これまでのストーリーテリング・システムは、カットシーンやダイアログツリーの選択のために、アクティブなゲームプレイを停止させる必要があった。だが、Eメールやログならそうしたことを必要としない。また、ダイアログツリーで採用されている分岐パスシステムとは異なる、ノンリニアなアプローチも可能だった。ストーリーそのものは完全に台本化されているが、それにどれだけ関わるかは プレイヤーの裁量に任されていた。
ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』に影響されたプロットと世界観を持つ『System Shock』は、ビジュアル的にもサイバーパンク的なサイバースペースを再現していた。プレイヤーの物理的な主観カメラの上にサイバーシステム上の仮想的な情報レイヤーを重ねることで、visual diegesis を達成していた。この場合の diegesis とはフィクション世界のなかのどの要素が実在し(digetic)、どの要素が外在的であるか(extra-digetic)を指す。たとえば映画のサウンドトラックは、多くの場合、実際に劇中で演奏されているわけではないので extra-digetic である。『システム・ショック』に関しても音楽だけは extra-digetic であるものの、その他のHUD上に現れる視覚的な情報はほぼゲーム世界内で実際に見えているであろう情報と同一である。*21


(上が『DOOM』の画面で、下が『System Shock』の画面。DOOMにおいては下部に表示されているステータス情報はゲーム内世界の主人公にもそのまま見えている情報ではないが、システムショックにおいてはプレイヤーの見ている画面=ゲーム内の主人公が見ている視界である。物理的な視界にデジタルな情報レイヤーが重なっている)


・こうした視覚システムは没入感(Immersion)を生み出す。〈不信の停止〉を継続させ、プレイヤーは劇中での出来事や物語を重みをもって受け止める。『System Shock』の目標は、ある種のシミュレーションとして機能することだった。開発者のウォーレン・スペクターは「ゲームをプレイしていることを想起させるようなものは、すべて取り除かれている」と語った。」
・リアルさを追求するもうひとつの要素は、声。まだテキストオンリーが標準だった時代に、すべての会話と電子メールにボイスをつけた。別につけたくてつけたのではなく、雑然としたHUD画面ではテキストで重要な情報をプレイヤーに伝えにくかったら、という理由による。
・断片的なストーリーテリングにしろボイスにしろ、ハード的な制約をクリアするための合理的な選択だったのだが、それが没入感の向上に貢献した。また、ノンリニアで小さな選択を無数にさせる構造も没入感に一役買っている。
・システムショックの売り上げ自体は低調で、せいぜいカルトヒットと言える程度だった*22。しかし、後世のゲームに多大な影響を与えた。『Half-Life』や『Deus Ex』もその子孫といえる。*23

■5.the best story ever: Final Fantasy VII(1997)――映画とゲームの狭間

Final Fantasy VII(Square)

・『ファイナルファンタジーVII』は一般ユーザーの投票では多くの場合、『ゼルダの伝説 時のオカリナ』に次いで二位にランクインすることが多い。著者は「なぜ『ファイナルファンタジーVII』はゲームというメディアを通じてあそこまで力強い物語(tale)を生み出せたのか」という問いを投げかける
・『FFVII』は北米でも衝撃をもって迎えられたが、そこにはアメリカの文化圏特有の空白が関係していた。ストーリー重視のRPGは、特にコンソールにおいては日本で以前から発展していたものの、アメリカのゲーマーにとってはもの珍しいものだった。「要するに、(アメリカの)コンソール機のゲーマーはテキストを読むことに慣れていなかった」。
・英語版のFFVIIの脚本は約12万語。プレイ時間は約45時間。「『FF7』のナラティブの特徴は、文学的な重厚さというよりも、その膨大な量にある」。
・「『ファイナルファンタジーVII』の人気の理由は、脚本の内容そのものと同じくらい、そのストーリーの表現方法と実行方法にあることに気づいた。間違ってはならないのは、このゲームはそのナラティブによってヒットのであって、戦闘システムの素晴らしさや最先端のグラフィックで売れたのではないということだ(それらは助けになったが)。」
・著者は冒頭二分のイントロダクション・シークエンス(美麗なムービーからクラウドたちが列車を飛び降りて最初の戦闘に突入するまで)を細かに説明する。
 FFVIIの革新性とは、映画の模倣に成功していること。FFVIIの数年前からプリレンダのカットシーン(通常のゲームプレイのCGとは異なる高解像度のもの)は存在していた。しかしオープニングのなめらかなカットシーンから高細度の背景を保ったままシームレスにプレイへ移るのは前例がなかった。「Monkey Island は映画を真似たが、FFVIIは映画そのものだった」。これもまた完全なる没入感への里程標として西洋のプレイヤーに熱狂される一因となった。*24
 それまでプリレンダのカットシーンからインエンジンのゲームプレイに放り出されてきたプレイヤーたちはむしろ没入感を削がれてきた。FFVIIはその問題を、プリレンダの背景といくつかのグラフィック的トリックを駆使することで解決した。たとえば、冒頭でクラウドたちが列車から飛び降りるところでは、列車は停止した瞬間に静止画に切り替わっている。こうした細かなトリックによってカットシーンとインゲームシーンをなめらかに接続し、没入感を高めた。
・著者に「奇妙なバトルシステム」と評されるランダムエンカウント制アクティブターンバトル。マップ移動とバトル画面を切り離したランダムエンカウントはもともと『ドラゴンクエスト』で容量の問題を解決するために導入されたもの。しかし、FFVIIのような高度にリアルなゲームにおいては戦闘の不自然さを際立たせてしまう。
・なぜこうした明白な不自然さを貫くのか。著者はバトルがゲームにおける双方向性を担保するためであるという。戦闘なしではテキストを読むだけの受け身なビジュアルノベルになってしまう。
・とはいえ、ゲームには ludic な要素と narrative の要素のふたつが含まれるが、そのふたつを(あまりシームレスといえないとはいえ)がんばって融合させようと工夫が凝らされている。
・ちなみに発売時の英語版FFVIIの翻訳は生硬だった。ソニー任天堂ほどにローカライズの管理や検閲に熱心ではなかったせい。しかし、そのおかげでミツバチの館での女装潜入のくだりなど、アメリカの基準では危ういシーンもそのまま輸入され、アメリカのプレイヤーたちはJRPGの原液を味わうことができた。
・つまりは、アメリカのプレイヤーは訳文の硬さよりも総合的な体験を優先し、FFVIIに熱狂した。雄弁なテキストであることは必ずしも、intellectual なテキストであることを意味しない。
・テキストだけではないFFVIIストーリーテリング面での魅力。「説得力のあるストーリーを語るには様々な方法があり、 形式をうまく使うことは、内容を正確に伝えることと同じかそれ 以上に重要であることを指摘したい」。
FFVIIはフラッシュバックなどの映画的な手法を多数用いる。たとえば、クラウドが回想で親元を訪ねるシーンでは、語り手であるクラウドの羞恥心から親との対話が断片的にしか表示されず、グラフィックも静止画で飛ばし気味に表示されるようになり、ついにはクラウドが仲間に「話をさっさと進めさせてくれないか」と懇願する。クラウドは信頼できない語り手であることが暗示されており、最終的には真実の再構築へとプレイヤーとともに向かっていくことになる。
・「『ファイナルファンタジーVII』は、華麗な文章構成といった表面的な要素にではなく、造形的な側面 、特に、『ファイナルファンタジーVII』の中でよりよく機能するような要素に、ストーリーテリングのエネルギーを注いでいるということだ」
・主人公(クラウド)は『Planetfall』や『Ultima IV』のように完全にプレイヤーのアバターではなく、一個の完成した自我と外見を持っている。しかし一方で最初に没入をうながすかのようにプレイヤーに名前を決めさせてもくれる。FFVIIアバター的な同一性とプレイヤーとの分断の間をあいまいに行き来する。それは完全にリニアなFFVIIのアプローチとしてはうまくいかないことも多かった。
・エアリスの喪失。エアリスの死が多くのプレイヤーにとってショックだったのは、単に脚本上練られたキャラだったからというだけでなく、それまでエアリスに積み重ねてきた時間的投資(レベルや装備費用)などを予告なく奪われるせいもあった。その点ではほとんどゲームに関与しなかった Planetfall のフロイドよりも大きな喪失感を引き起こした。「このような実用主義的な話は不愉快に聴こえるかもしれないが 、ゲームデザイナーは、ナラティブに奉仕するために滑稽な要素と表象的な要素を同調させることによって生まれる可能性を無視することはできない。」「エアリスの死のシーンは、その前に十分なキャラクター展開がなければ効果的ではなかっただろうが、彼女がプレイアブルキャラクターでなければ、これほど効果的でもなかっただろう。ゲームには、極めて強力な喪失感を生み出す力がある」
FFVII後に『バルダース・ゲート』や『Planescape』『Fallout』『Deus ex』などの西洋的なRPGを遊んだ多く筆者はノンリニアな体験に「これこそがロールプレイだ」と感じ、強力に直線的なFFVIIに対して不満を抱くようになったものの、再プレイを通じてその心のこもったエンタメ性の高さに気づき、敵意も薄れた、という。「このゲームの永続的な遺産はその美学にあった。Monkey Island のようなゲームは、単に映画を模倣するのではなく、映画の美点をすべて具現化した、真に映画的なゲームを作る競争を始めた。シネマティックなゲームには、数多くの利点があった。映画に慣れ親しんだ多くの観客に容易に売り込むことができ、ゲームデザイナーや作家は、映画のために車輪を再発明する必要がなく、映画でお馴染みのテクニックを使うことができる。『ファイナルファンタジーVII』は、そのようなゲームである」

■6.The Rise of Cutscnes: Metal Gear Solid(1998)――ゲームにおけるカットシーンとはなにか?

Metal Gear SolidKONAMI

小島秀夫のインタビューによると「ソリッド」には3つの意味がある(1999年のインタビュー)。一、主人公の名前。二、三次元という意味。三、スクウェア(=二次元)というゲーム会社に対して三次元で優越してやろうという意気込み*25。つまり、小島は「映画的」な面でもFFVIIに挑戦状を叩きつけたのである!
・というアレはさておき、「『シネマティックなゲームを』という同じ野心から生まれたこれら2つのゲーム(MGSとFF7)には多くの共通点がある。カットシーンの多用、説明的なダイアログ、異常に複雑なシネマトグラフィなど。しかしプレイ体験についての目標は著しく異なっている」
・MGSとFF7の最大の違いはボイスの有無。フルキャラクターボイス自体は前述『システム・ショック』(1994)が先んじて導入していた。だが、開発チームが吹き替えを担当した『システム・ショック』とは違いMGSは(北米版でも)プロの声優・俳優が起用された。
・第二の違いはカットシーンにおけるグラフィックのクオリティ。FF7がプレイ時とは異なるプリレンダリングされた美麗なグラフィックをカットシーンに用いていたのに対し、MGSはインゲームのときと同様のシャギーでファジーなテクスチャ(著者は「醜悪」とすら形容している)でカットシーンを描いた。つまり、ゲームを通じてグラフィックの質や質感は変わらない。これはゲーム世界の一貫性を担保し、本作の最大の目標であるリアリズムを向上させた。「この世界が現実であるとプレイヤーに信じ込ませなければ、ゲームを作る意味がない」とは小島監督の言。
・劇中でスネークは通信回線を通じてさまざまな情報を提供される。彼の持つ知識はプレイヤーと同程度である。
・初代『メタルギア』(1987年、MSX2)はアメリカでもファミコンに移植されて発売されたが、続編は日本以外では販売されなかった。しかし、『メタルギアソリッド』はあきらかにスネークの過去や過去作の知識や認識を反映しているため、未経験のアメリカのプレイヤーは齟齬をきたす。このギャップを解消するために、メインメニューに「過去の作戦」というティップスを配し、さらには脚本中でさりげなくキャラ同士の人間関係や因縁を提示した。
・もっとも過去作知識の欠落は日本のプレイヤーも同様で、「ゲーム機のライフサイクルの短命さ(通常は5年程度)と、プレイヤーが『古い』ゲームをプレイしたがらない傾向とが相まって、ビデオゲーム作品の寿命はふつう数年程度しか保たない。どのような続編であれ、プレイヤーの大多数はオリジナル(MGシリーズ)をプレイしていないと考えたほうがよい。」
・したがって、開発者はある程度まで前作までにおけるデザインや知識に頼ることもできるが、新規のプレイヤーのための学習曲線を調整しなければならない。
・MGSにおいて、プレイヤーは大佐からのブリーフィングを受ける。このようなブリーフィングシーンは、ゲーム後半の向けてのプロット面での伏線も仕込まれてはいるものの、主な目的は(他のゲームのような「シーンを設定する」カットシーンと異なり)作戦=ゲームプレイにおける有益な情報をプレイヤーに提供すること。基地のレイアウトや敵、受けられる支援など。
・「これはルーディックなカットシーンであり、ゲームプレイを阻害するものではなく、むしろゲームプレイの不可欠な一部である」
・MGSは三つのレイヤーから構成されている。アクティブなゲームプレイ、カットシーン、コーデック・シークエンス。
・アクティブなゲームプレイではステルスを活用してスニーキングミッションをこなしていく。敵に見つからないためにブリーフィング(カットシーン)で有用な情報の一部を受け取る。
・コーデック・シークエンスは無線機での会話シーンのこと。ゲーム世界から切り離され、スネークと通話者の顔とダイアログだけが表示される。コーデックには役割がふたつあり、一・巧妙な掛け合いによるラジオドラマとしての機能、二・情報のホットライン。後者では行き詰まったさいにインスタントにさまざまな専門家と通信して、問題に対処していく。
・この情報ホットラインシステムが、インターネット以前にゲーム会社が行っていた有料のゲーム攻略相談電話*26をゲーム内でエミュレートしたもの。
・情報ホットラインで連絡をとれる専門家で最も特異なのは核の専門家ナターシャ。彼女は核開発や核兵器、核を巡る政治状況などをプレイヤーに教育してくれる。が、それらはゲームクリアにとっては不要な情報である。核兵器に関する説明的なシークエンスが巧みにゲームプレイに織り込まれており、ゲーム全体のテイストに影響する。
・(核に関連して)当時はビデオゲームが政治的な問題を取り上げるのは非常に珍しかった。それはそのような話題がプレイヤーに嫌われるとゲーム会社が判断しがちだったためだが、『メタルギア』はそのような話題を含んでいても大ヒットを飛ばせることを証明した。
・メタ演出。大佐は「私が必要なときには、コーデックを通して連絡をくれ。周波数は140.85だ。コーデックを使いたいときはセレクトボタンを押すんだ」という。MGSではしばしば第四の壁を故意に破る。そのもっとも有名なシークエンスがサイコマンティスのくだり。超能力者である彼は、ゲーム機のコントローラーに干渉してプレイヤーを圧倒する。彼に勝つためには、コントローラースロットからコントローラーを抜き、2P側のスロットに挿しなさねばならない。MGSがプレイヤーの予想を超える/裏切る体験を目指している一例。
・もう一つのメタな演出の例。オセロットがスネークを拷問にかけながら屈服を要求してくる(屈するとメリルというキャラクターが死ぬ)。スネークは痛みに悶え苦しむのだが、プレイヤーには痛みが伝わらない。そこでオセロットは「ライフがゼロになったらゲームオーバーだ。スネーク、セーブをしてからずいぶん時間が経っているぞ……またあの長い道のりを旅したいのか?」と問いかけてくる。
 これはプレイヤーに対しては「コンティニューして長いやりなおしをせねばならない」という「苦痛」をつきつけることでもある。これにより、オセロットはスネークと同等の拷問をプレイヤーにしかけてくる。また、拷問から脱出するさいにはコントローラーのボタンをすばやく連打することが求められる。拷問から解放されたスネークは「腕が痛い」と訴えるのだが、この肉体的な痛みをプレイヤーは共有している。
・「ビデオゲーム、特にカットシーンを多用するゲームでは、ストーリーとゲームプレイを強引に切り離す傾向がある。MGSはそうではない。MGSは説明的なセグメントを用いて、プレイヤーにゲームプレイに関する情報を提供し、またオセロットの拷問シーンではプレイヤーの実際の肉体的状況をゲーム内のシーンの説明に使っている」
・拷問シーンはストーリーの分岐にもかかわるため、よりプレイヤーの体験が強化される。
・「1989年の Maniac Mansion ですでに導入されていたエンディングの分岐(マルチエンディング)は、1998年までにはめずらしい技法でもなくなっていたが、このようなしかた(which presents an opportunity to examine this common method of creating interactivity)で使ったのはMGSが初めてだった」。MGSのような方法なら、分岐ポイントがたったひとつであったとしても、プレイヤーに莫大な(プレイ経験としての)報酬を与える。
・「(FF7の)エアリスの死はプレイヤーに悲しみを催させるが、(MGSの)メリルの死は罪悪感を与える」
カットシーンについて。このようにMGSのカットシーンやゲームデザインは非常にゲーム的であるにもかかわらず、MGSという作品はしばしば映画的(シネマティック)ゲームの申し子として語られがち。それはゲームプレイに対して受け身になる場面(非インタラクティブカットシーン)の比率が大きいため。そうした形式的不純さが一部のプレイヤーや開発者の猛烈な反発を買った。*27
・イェスパー・ユールは「インタラクトする『現在』と、ナラティブとしての『過去』あるいは『以前』との間には、避けがたいコンフリクトがある。ナレーションとインタラクションを同時にこなすことはできない」といった。(Jesper Juul, “Games Telling Stories?”, 2001)
カットシーンに対してよく見られる批判は「ゲームを遊べずに見させられるだけなら、映画を観に行ったほうがマシ」というもの。つまり、カットシーンはゲームではない別のメディアに属するものと判断され、プレイヤーのニーズに反する。
・このような攻撃はベルゲン大学教授の Rune Klevjer の「In Defense of Cutscenes」*28において反論されている。Klevjer は「物語的説明を排したゲーム」というルドロジー至上主義者の理想を攻撃。*29
・Klevjer「ここ(Juul)では dsicursive mode としての『ゲーム』と、実際的な文化的製品である『コンピュータ・ゲーム』との混同が意図的になされている。〈『ゲーム』と『ナラティブ』が別物である〉という事実を引き合いに出すだけで、任意のコンピュータゲーム作品におけるナラティブまわりを糾弾できるということを(皮肉にも)効果的に暗示しているではないか」
・Klevjerの仮想敵のような批評家は multi-discursive なゲームを、テキストにもゲームにもなりきれず、その両方の組み合わせによってできている事実によって無条件に否定する。
・例:Espen Aarseth「オーディエンスは、プレイヤーかオブザーバーのどちらか一方になること(演技すること)を望むので、この種のモーダルなクロスオーバーには限界があるように思われる」
・Klevjer はAarsethやJuulのような言説が前提とする「カットシーンとゲームプレイの分離」というテーゼに疑義を唱える。彼はカットシーンが「監視や計画のためのツール(a surveillance or Planning tool)」として使えるのだと主張する。そしてそれ以上に「ゲームプレイにおけるカタパルト」の役割が重要と指摘。
・著者によるゲームプレイにおけるカタパルトの例:「基本的に、カットシーンは場面の緊張感やエネルギーを高めると同時に、スリリングでない展開をスピードアップさせるために使われる。『メタルギアソリッド』では、ボス戦の前にスネークと対戦相手のやりとりがあり、そこで戦いの利害関係が決まり、取りうる戦略の可能性が明らかになる。カットシーンが終わると、プレイヤーは戦闘の場へ突入し、アドレナリン全開で対決を開始する。むしろ、すぐに銃撃戦に突入するような劇的でないアプローチよりもいい。」
・Klevjer は他にもゲームの世界を(ルドロジストの思い描くルール重視のボードゲームよりも)若者的な「make believe」と密接に結びつける。神話的な世界のなかで大きな障害を乗り越えたときにスネークが見せる反応がプレイヤーの達成を証す。「ソリッド・スネークというキャラクターがプレイヤーの操作方法を自然に導くように、プレイヤーの行動はソリッド・スネークの物語に織り込まれている」
・Geoff King と Tanya Krzywińska は”Computer Games/Cinema/Interface”という論文でゲームと映画の間に考えられるあらゆるつながりを検証しており、結論のひとつして「映画におけるナラティブは基本的にゲームのそれよりも重要」といった。どんなに頭空っぽなブロックバスター超大作であっても依然として映画ではナラティブは中心的な構成要素。一方、ゲームではもちろんそれ自体推進力にはなりうるのだが、より二次的であり、パズルを解いたりプレイに没入したり新しい世界を冒険するための道具にすぎない。FF7のような物語重視(Story-driven)のゲームでさえ、ルーディックなプレイとナラティブは分離している。たとえば、ストーリーがティファの装備や戦闘スタイルに影響することはない。
・「MGSの重要な功績は、この(ナラティブとゲームプレイに横たわる)断絶を大いに克服したことである」と著者は言う。ゲームとストーリーが互いに支え合うようにできていて、挿入されるカットシーンもプレイと断絶しているにもかかわらずシームレスに切り替わり、スネークに一貫性を与えている。ただカットシーンとプレイが交互にやってくるのではなく、その合間に挿まれるコーデック・シークエンスがそのふたつをうまく橋渡ししている。
・そうしてプレイヤーの体験を厳密にコントロールした結果MGSはリニア性が強く出ており、真にプレイヤー主導のナラティブ(player-driven narrative)を作っているとは言い難いが、表現と現実の溝を埋めたという達成がそれを補って余りある。

■7.One Camera, One World:.HALF-LIFE(1998)――Realism か、Immersion か?

Half-Life(Valve)

・『Half-Life』は電車に乗っての通勤シーンから始まる。銃の出てこない冒頭は「過激な軍拡競争」のもとにあって当時のゲーム(特にFPS)にはかなり異例なことで、「その平凡さゆえに平凡さを免れた」
・『Half-Life』はカットシーンを完全に排除しており、世界が連続している。ナラティブ空間(カットシーン)とルーディック空間(ゲームプレイ)のあいだに隔たりはない。「テキストボックスもダイアログツリーも、ゲームの流れを中断させたり、プレイヤーを一瞬でもその世界から引き離したりたりするものは何もない」
・主人公の背景情報などもゲームプレイを通じて提供され、以前のゲームのような説明書でのストーリー解説*30などは必要なくなった。チュートリアル部分は「ゲームの他の部分と時間的に連続し、完全に統合されている。『Half-Life』がプレ イヤーに真の決断を求める頃には、ゴードン・フリーマン(主人公)というキャラクターと彼の住む世界はしっかりと確立されている。 (操作不能カットシーンから始まる)『ファイナルファンタジーVII』のオープニングとは対照的だ」
・ビジュアル・サウンド・文字の洪水はプレイヤーに過大な負荷を与えるため、以前は避けられていた。しかし『Half-Life』はそこをあえてやった。シニア・デベロッパーのケン・バードウェルは開発チームの考案した、"体験密度 (experiental density)"なる理論でそれを説明する。刺激や注意をプレイヤーに与え続けることで間延びさせず、没入感を持続する。
・『Half-Life』をリアルに感じさせる諸要素はいずれも没入感と現実感を高めるためのもの:
 ・プレイヤーはあくまで「ふつうのひと」であり、世界の中心ではない。他のNPCはまた他のNPCと会話していたりする。これは当時としては画期的なこと。
 ・当時の他のゲームと異なる点はもうひとつ。『Half-Life』では画面遷移の切り替わりが起こらない。マップのローディング時はブラックアウトせず、ローディング・シンボルが表示されてゲームが一時停止するだけ。カットされたり時間的なジャンプが発生することも(プレイヤーキャラが昏倒した場合を除き)ほとんどない。この時間的・空間的連続性は当時としては異例だった。
 ・環境へ影響を及ぼせること。プレイヤーがアクションを実行するたびに、ゲーム世界がプレイヤーの存在と影響力を認めなければならない(=インタラクションを発生させなければならない)。Valveではこのデザインセオリーを「Player Acknowledgement」と名付けた。これが環境においてあらゆる面で干渉可能なオブジェクトの存在につながった。
 ・とはいい条、完全な意味でのシミュレーションは現状不可能だと著者は指摘する。『Half-Life』で壁にロケットランチャーを撃っても穴は明かないし、変化は永続しない。開発者はある程度まででシミュレーションを諦め、われわれの現実とは異なるルールの世界を作るか、『Half-Life』のようなまがい物のシミュレーション(Pseudosimulation)を実践するしかない
・『Half-Life』は現実感(realism)と没入感(Immersion)を区別し、後者の実現に努力しているが、前者からはすこし距離を置いている。現実感とは、ゲーム世界が現実世界をどれだけ正確にエミュレートしているかの尺度。没入感とはプレイヤーがコントローラーやスクリーンなどといった媒介要素を意識することなしにゲーム世界と直接つながっている感覚を得られるかどうかという、プレイヤーの体験の状態のこと。
・『Half-Life』はシナリオ面においては陰謀論や銃撃戦といったB級映画的なプロットを多用し、プレイヤーたちにフィクション性をつねに留意させている。「要するに『Half-Life』の過剰さ、あからさまにゲーム的であったり荒唐無稽であったりする諸要素は、開発側の無能や正確なシミュレーションの失敗によるものではなく、意図されたものなのだ。」
・『Half-Life』のレガシー。没入感を高めるための統合された語り。「本作は『ファイナルファンタジーVII』や『メタルギア・ソリッド』など同様に映画的な起源と様式を共有しているが、(プレイヤーにとって受動的な)説明と(プレイヤーによる)能動的なコントロールを区別するというかれらのやり方を明確に否定している。カットシーンやテキストボックスは時代遅れの装置なのだと、『Half-Life』は宣言しているのだ。ゲームにストーリーが必要なら、ゲームプレイと連動して語られるべきであり、ゲームプレイの上位にあるレイヤーで語られるべきではない」
 しかし、『Half-Life』以後の長いあいだ、『Half-Life』的なストーリーテリングを継承したゲームはあまり出てこなかった。*31

■8. A LIVING WORLD: 『シェンムー』(1999)――「世界」を作り上げる技法

シェンムーSEGA

・『シェンムー』は発売当時、かなり激しい賛否両論をもって迎えられた。それはこの作品の革新性によるところが大きい。
シェンムーはオープニングで主人公のライフサイズな人間としての限界、場所、時間(時刻)などの日常生活のリアルな要素が重視されていることが明示される。『ハーフライフ』とは逆で、リアリズムのゲーム。「暴力ではなく、社会的なつながりが父親の殺人事件を解決する鍵なのだ」。
・『シェンムー』はあらゆる細部から世界が構築される、”見るゲーム”。プロットやゲームプレイ(メカニクス)に重点を置く大多数のゲームとは一線を画している。
・開発者の鈴木裕は「FREE」というジャンルを提唱した。「Full Reactive Eyes Entertainment」の略。リードシステムプログラマーの平井武史は「開発当時にはなかった”なんでもできる”という感覚を想像し、作り上げること」が開発における最大の難関だったと証言している。
・『ハーフライフ』ではNPCとの実のある交流はほとんどなかったが、『シェンムー』はNPCとの交流についても力を入れている。200名以上の街の住民ひとりひとりに個性と声優が設定され、主人公は父親殺しの犯人を見つけるために彼らに聞き込みを行う。つまり、ささいな手がかりにかんする質問でもひとつあたり200名分の音声を収録する必要があったわけで、こうした一見「無駄」な労力がシェンムーのコンテンツを膨大にした。一方でひとつの捜査パートで聞き込みを行える人物の数には制限が設けられている(総当たりはできない)。
 自然プレイヤーには「よく聞き込みを行うヒト」とそうではないヒトとの間で親しさの差が生じる。そうして、プレイヤーには自らの選択によって個人的な関係をNPCたちと築いていくことになる。
・もっとも会話内容自体は「知らない」とか「わからない」とかそっけなく無個性的なものも多かったため、あるゲームデザイナーは「ハムスターのほうが会話スキルが高い」などと揶揄し、そのプアさが没入感を阻害していると指摘した。ちなみにそうした制約を痛感していた『システム・ショック』や『グランド・セフト・オート3』などはNPCとの会話を切り捨てていた。
・こうしたNPCの会話スキル問題は『シェンムー』そのものインタラクション・デザインの欠陥というより、当時の技術的な制約の面によって生じたもの。開発者たちは大勢のNPCの会話を作り上げる困難さを認識しつつもあえて突っ込んでいき、ゲームの表現の可能性を拡張した。
・『シェンムー』のNPCをリアルに感じさせるのは、会話ではなくむしろ動きの面。当時のNPCはほとんど動かないことが多かったが、『シェンムー』ではそれぞれのNPCにスケジュールが与えられて、それにそってみな町中を歩き回る。個別には単純なものだが、それらが100名以上にもなってくると、街ひとつを再現しているかのように錯覚され、世界に対する没入感が高められる。
・時間はプレイヤー中心ではない流れ方をしている。常に現実世界での五分ごとにゲーム内で約一時間が経過するといったペース。そして、その時間の枠組で、プレイヤーがなにもしなくても世界が回っていく。『シェンムー』というゲームにプレイするにはそうしたプロセスに参加する必要がある。
・ゲーム終盤では頻繁に本筋のプロットが停止し、「ストーリーがふたたび動き出す翌日まで暇を潰さなければならない」といった事態が起こる。そこでプレイヤーが街でできるアクティビティやミニゲームがたくさん用意されている*32。ただなにもせずにブラつくことも可能。しかし、この「余暇」が当時の多くのプレイヤーを激怒させた。代表的な意見としては『ニューヨーク・タイムズ』紙に寄稿したチャールズ・ヘロルドの「暇つぶしためのゲームをプレイするのであって、ゲームの中で暇を潰すためにゲームをプレイしているのではない」。一方で、ジャーナリストのトム・ビッセルのように「ゲームは楽しくなければならない、という考えはゲームという媒体が不幸な語源から抜け出せないために生まれた誤謬」だと指摘。「game」という単語はアイスランド語の「gaman」に由来し、「楽しい」という意味。しかし、ビデオゲームはいまやルーツである古い時代のアーケードゲームよりもはるかに幅広いインタラクティブ・メディアへと進化しているのだと。
・一方著者は「『シェンムー』が退屈なゲームであることは間違いない。だが、熱心なファンたちが存在するということは、多くのプレイヤーが『シェンムー』から「楽しい」以上のものを得たということでもある。彼らは、このゲームのリアリズムを好んだのだ」と肯定的に評価する。*33
・注釈における(著者自身も属している)ゲームジャーナリストへの見方が辛辣。「ゲームジャーナリストは商業的にリリースされる大作に対する評価において、驚くほど統一されている傾向がある。この傾向に対して、ほとんどのジャーナリストは、(映画などの)他メディアと比べてビデオゲーム、特にジャンルの枠を押し広げるような革新的な作品が出現した場合にそのことが明白にわかる客観的要素が含まれているから(だれにとってもその革新性を評価しやすいのだ)と主張する。だが、私自身はゲームジャーナリストたちは特に批評的でもなければ、内省的でもないと考えている」
・著者いわく、通常ゲームプレイは入念に構築された時間と空間を通じた体験に従属するが、『シェンムー』とは静寂と空間の実験であり、沈黙を利用してアクションとドラマの文脈を形作り、強化するのものである。
・他のゲームは常に刺激を最大化するように設計されているが、『シェンムー』でプレイヤーに与えられるのは豊かな世界を観察するための十分な時間である。そこにおいてプレイヤーの行動の選択に明確な優劣はなく、以前のゲームにはなかった自発性を作り上げている。
 その精神は『GTA3』のようなオープンワールドに一定程度引き継がれたが、完全な後継者は今日(2012年時点)に至るまで存在しない。*34

■9. A Critical Mass Choise:『Deus Ex』(2000)――開発者の想定を超えるプレイヤーたち

Deus Ex (Ion Storm)

・『Deus Ex』は「パズルではなくプロブレム」を合言葉に設計された作品で、物語とゲームプレイが密接に関連している。本作ではプレイヤーの道徳的選択が常にゲームに反映されていく。ただし、『ウルティマIV』のようなゲーム側が押し付けてくる道徳基準に従うのではなく、あくまでプレイヤーの判断をジャッジしない。『Deus Ex』の世界は単純な善と悪のみでできていない。
・課されるミッションへのアプローチ法は複数存在する。たとえば、目的地までに雑魚敵がうようよしているとして、正面突破で全滅させることもできるし、戦闘を避けながらこっそり抜けることもできるし、防御システムのコンピューターをハッキングして一掃することもできる。そして、どんな手段を取るかでその後の展開も変わってくる。敵兵を虐殺すれば上司の機嫌を損ねて次のミッションで武器が支給されなくなるし、逆に平和的にクリアすると仲間たちから弱虫と嘲られ、ルートによっては仲間のエージェント救出に失敗してボーナスを失う。
・敵兵たちも人間らしく描かれており、敵同士の会話でかれらの私生活や考えが漏れ聞こえてくる。それはプレイヤーに殺害への罪悪感を抱かせる。
・序盤にATMをハッキングして現金を手に入れると、後に敵の口座のIDとパスワードをつきとめて金を引き出そうとした時にハッキング事件のせいでATMのサービスが停止されている。このように短期的な決断が長期的な影響を与えることで、プレイヤーはその存在が尊重されているように感じる。
・女子トイレを覗き見しようとすると上司からキツめの叱責を喰らう。
創発的ゲームプレイ(Emergent Gameplay)。ある課題に対して複数存在するアプローチ方法は開発側が明確に設定しているわけではなく、十分に複雑なシステムからプレイヤー自身が導き出す。*35
 たとえば、あるシーンで開発者は課題に対して三つの解決法を考えていたが、プレイヤーの一部は環境を利用することで開発側が想定してなかったアプローチを編み出した。また、地雷としても使える平らな手榴弾を壁に取り付けることで足場として使うやりかたもプレイヤーたちが自身で発見し、これによりフィールドのあらゆる場所に到達できるようになった。
 広大なフィールド、予測不可能なAI、正当な物理演算といった要素がプレイヤーの行動と複雑に絡み合うことでさまざまなシチュエーションが発生するのだ。
創発的なゲームプレイはデザイナーにとっては利害両面がある。ゲームの可能性を爆発的に増加させる一方で、ゲーム自体を破壊してしまう可能性も出てくる。たとえば前述の手榴弾の足場は本来乗り越えることのできない障害物をプレイヤーに超えさせて、グラフィックの用意されていない虚無の空間へと到達させるおそれがあった。
・プレイヤーの中にはそもそもデザイナーの用意した正規のウォークスルー(攻略ルート)を破壊することに楽しみを見出すものも存在する。バグを利用して『ウルティマ』のVからVIIの「アンチ・ウォークスルー」を作り上げたゲーマーのジョー・モリスは、『システム・ショック』でも同様のカウンター・プレイをやろうとした(ウルティマV-VIIとシステム・ショックのクリエイターはおなじ)。そうして、『Sunglasses at Night』と名付けられたガイドを作り上げた。インタビューで、彼は、自分がカウンタープレイに興じるのは子どもの頃にひとつのゲームを遊び尽くそうとするうちに自然とそうなったと語っている。そうしたある種のエンドコンテンツ性が『Deus Ex』以降に多くのゲームで創発的ゲームプレイが取り入れられる動機ともなっている。
・「ゲームとは、その性質上、戦いである。シングルプレイヤーゲームでは、プレイヤーは常にゲームシステムとNPCの敵の両方と戦っている。」
・選択肢を多く与えるだけでは不十分で、その選択に意味を与えなくてはならない。そのために物語(deus ex の場合はカットシーンではなく、環境に仕込まれたロア)が用意されている。
・「結局のところ、『デウスエクス』がこれほどまでに効果的だったのは、統計や戦闘システムの山に埋もれていたロールプレイングというジャンルの原点に立ち返ったからだ。『ダンジョンズ&ドラゴンズ』がプレイヤーをパワフルで影響力のあるヒーローに 仕立てたように、『Deus EX』は世界を変えるプレイヤーの能力をリップサービス以上のものとしていた。『選択の自由という概念を、他の一人称視点のゲームよりもはるかに前面に押し出したゲームだった』と、キーロン・ギレンはこのゲームの回顧録で説明している。」 *36

■10.Gaming in Player: Metal Gear Solid 2 (2002)――「続編であること」を利用した語り方、あるいはメタフィクションの効用

Metal Gear Solid 2(2002)

・ゲームはたびたびジャーナリズムから「続編がオリジナルより優れている唯一のメディアである」と指摘されてきた。その主たる理由は、ゲームの大部分を占めるゲーム的なメカニクスが前作からのフィードバックを受けて改良されることが多いからで、「続編が新鮮味に欠けることは、他の物語メディアに比べれば、さしたる問題ではない。」*37
・基本的に消費者は独創性よりも既知の経験を繰り返すことを求める。続編が安定的に売れる理由。*38
・「ゲームの続編はシナリオの面でも楽なのだ。 素晴らしい作品を作りやすいからというわけではなく、ストーリーテリング面での不足を補う要素が数多くあり、ビデオゲームのこの側面に対する批評的吟味が一般的にすくないからである。この現実が、『メタルギア・ソリッド2:サンズ・オブ・リバティ』をより興味深いものにしている」
MGS2は「あまりに奇妙な」ゲームであり、発売当時にレビュアーたちは大いに戸惑った。なかには「言葉では適切に説明できないゲーム」とさえ述べるレビューさえあった。
・途中で明かされるシリーズ主人公の交代(シリーズ主人公であるスネークではなく、雷電という新キャラと判明する)、さらにはシリーズ主人公の死など、ゲーム開始時からツイストに次ぐツイストのプロット。「雷電の登場は、ゲームにおける偉大な衝撃のひとつであり、誰も予想していなかったことで、プレイヤーの世界をひっくり返した。『MGS2』には多くの達成があるが、これはその決定的な瞬間である」
・小説などの他メディアではシリーズ主人公の交代はそこまで衝撃的ではないかもしれないが、MGS1が(本書でも述べてきたように)その演出やプレイを通じてプレイヤーとの親密な関係を結んできたことを考えると、当然ファンは続編にもスネークの続投を望んでいたはず。しかし、小島秀夫をそれをあえて裏切った。ゲーム本編のスタート画面でもスネークの顔を大写しにしていたが、ゲームが進行して『プラント編』に突入するとスタート画面に表示される顔が雷電に切り替わる。
・途中でプリスキンを名乗る人物と出会う。この人物はプレイヤーにはあからさまにスネークに映り、ずっと「こいつ、スネークでは?」と思いながらプレイしつづけることになる。最終的にプリスキンが自身をスネークだと雷電の前で認める場面は本作における「もっとも衝撃的でない真実」になるが、これは同時に意図的な演出でもある。
 スネークはシリーズプレイヤーにとって信頼できる人物であり、そのことがプレイヤーがあきらかに胡散臭い人物であるプリスキンを信頼できる理由ともなる。このことはスネークの物語をプレイヤーが内側からではなく、外側から見ることへの転換を意味する。
 MGS2におけるスネークは「プレイヤーがなりたいと願う存在」であり、それはスネークに憧れる雷電の渇望とも共鳴する。
MGS2は「ゲーム史上おそらく最も複雑なプロット」を持つゲームであり、同時に「最もポストモダンなエンディング・シークエンス」を持つゲームでもあった。
MGS2のプロットに配置された要素(ボス戦、配置されキャラ同士の関係、終盤の展開、そしてサイボーグ忍者の登場)はMGS1とかなりの程度オーバーラップする。これはMGS2の有名なメタ表現「発狂する大佐(雷電の上官である大佐が通信で「電源を切れ!」と言い出し、困惑していたら「心配するな、これはゲームだ! いつものゲームだよ」とまた謎なことをいう)」とも関係している。単なるお茶目で第四の壁を破っているのではなく、実は「発狂する大佐」の演出はプロットの核心に関わってもいるのだ。
・展開される物語は実はすべて仮想現実と情報操作の力を試すためのでっちあげのプロジェクト。「雷電のようなルーキーであっても、偉大なソリッド・スネークの役割と任務を果たせるかどうかを確認する努力として、出来事は一作目と類似している。プロットの外では、ありそうもない出来事の非論理的な模倣であり、続編の正当化でありパロディでもある。」「『MGS2の主人公は雷電ではなく、プレイヤー自身である」
・与えられたメディアを使って、そのメディアでしかできないことを成し遂げるのはポストモダニズムの特徴のひとつであり、その意味ではMGS2はもっともポストモダン的な作品のひとつ。
「『MGS2』は、プレイヤーを認めつつも否定することで、あらゆるゲームシナリオの根底にある作家性の問題をあからさまにした。ほとんどすべてのナラティブゲームは、プレイヤーに自分ではないキャラクターを提供し、プレイヤーに選択肢(または選択肢の錯覚)を与えることで、プレイヤーが自分のキャラクターの運命をコントロールしていると感じられるようにし、プレイヤー自身の経験の作者として描こうとする。MGS2は 、プレイヤーであるキャラクターについてのナラティブを提供するが 、プレイヤーの能力を否定する」「このデザインは、(『MGS2』の多くの部分と同じように)プレ イヤー、彼のキャラクター、そしてゲーム開発者の間にある、し ばしば奇妙な三角関係を際立たせるための意趣返し、逆転劇なのではないだろうか。MGS2は、従来の三角関係の構造を変えることで、それを前面に押し出し、プレイヤーを不快な立場に置いて、なぜ自分が不快なのかを問うように仕向けている。プレイヤーが自分の存在を忘れるような没入感のある空間を作り出すというアイデアを拒絶している。プレイ ヤーは常に、『これはただのゲームだ』と思い知らされるのだ。 この、プレイヤーが落ち着くことを拒絶する頑なな姿勢が、本作が両極端な評価にさらされた主な理由のひとつであり、最大の革新のひとつでもある。」「小島は、ビデオゲームストーリーテリングの新しい方法を提示するだけでなく、完全にオリジナルなコンテンツのためのキャンバスであることにいち早く気づいた一人だった。あらゆるストーリーは、物理的な形と消費者の心の中に同時に存在する。」

■11&12 Intertitle/Façade (2005)&Dear Esther(2008):インディーゲームの挑戦

 ・インディーから次なる表現の萌芽を感じる2作品の短めの紹介。ひとつはAIによるダイアログの革新、もうひとつはウォーキングシム。どちらもたしかに2010〜20年代のゲームのトレンドになったもの。

・Interactive Drama: Façade

Façade

 ・4gamersの紹介:https://www.4gamer.net/weekly/kaito/041/kaito_041.shtml
 ・ヴァーチャル・ペット・ゲームである『Petz』シリーズ(1995〜2002)を制作したP.F.Magic社のデザイナー、アンドリュー・スターンの「動物だけでなく、人間とのコミュニケーションもヴァーチャル化したい」と考え、カーネギー・メロン大学の学者であるマイケル・マティアスと組んで制作したインタラクティブ・ドラマ。
 ・会話がダイアログツリー式ではなく、AIと〈ドラマ・マネージャー〉と呼ばれるプログラムによってダイナミックに進行していく。「インタラクティブ・ドラマ」ジャンルの最初期の作品。開発者によるとAIシステムはプレイヤーとのやり取りを7割程度しか理解できていないそうで、決して全面的に自由な会話ではないのだが、それでも自由さを錯覚させるだけの魅力を放つ瞬間が何度も訪れる。

・Minimalism - Dear Esther

Dear Esther(Chinese room)

 ・扱うのはオリジナルMOD版で、12年に出たリメイク版ではない。
 ・FPSゲームを研究しているダン・ピンチベックが「FPSからシューティング要素を抜いたらどうなるか? プレイヤーを惹きつけるにはストーリーを語るしかないが、それはFPSのフォーマットで可能なのだろうか?」という疑問を抱き、そこから始まった実験作。
 ・ダイアログ主体のADVを作成することも可能だったが、それでは既存のADVの枠内で行われることとあまり変わらなくなる。そこでピンチベックは空間からNPCを排した。そして、シューティング要素を取り除いたことはオブジェクトの破壊や変化といった環境変化の要素も取り除くことへとつながった。
 ・「挑戦も戦闘もなく、『ミスト』のような難解なパズルに逆戻りすることもなく、彼にはゲームを進めるためのストーリーだけが残された。そして、肉体を持ったNPCがいなければ、正体不明のナレーターと環境そのものとの組み合わせによってのみ、物語は語られることになる」
 ・プレイヤーの注意力を求める在り方として一番近いのはラジオドラマ。
 ・ただノンリニアというだけではない。ほかのノンリニアなゲームもふつうは明確なエンディングを持つ。しかし本作はプレイ過程も曖昧なら結末も曖昧。
 ・「Dear Esther はおもしろくない。おもしろくしようさえしていない」
 ・「『Dear Esther』と『Façade』は、 どちらも不愉快な題材に取り組んでいる。ビデオゲームでは暴力や死はよく扱われるが、トラウマや鬱は扱われない」「『Façade』や『Dear Esther』のような短編ゲームは、ゲームデザインにおける重要な成長分野のひとつだと私は考えている。比較的安価であり、すぐに終わるとわかっていれば、人は自分の快適な領域から外れたもの、未知のクオリティのものにより積極的に取り組むものだ。最後に、このようなゲームは制作が早く、安価である。作り手と観客の双方にとって参入障壁を低くすることで、驚くほど新しいタイプのビデオゲームゲームデザインがあふれでる状況が整いつつある。うまくいけば、21世紀に入って業界が失った積極的なイノベーションを取り戻せるかもしれない。」*39
 ・本作は「ゲームであるかどうか」で大論争を巻き起こした。もっとも言われたのは「インタラクティブではないからゲームではない」*40
 ・「ゲームは競争をするもの」というゲーマー/非ゲーマーに広く浸透した意識を打ち破り、あたらしいゲームの可能性を開くものかもしれない。*41

■13.Interactive Cinema:Heavy Rain(2010年)――映画とゲームを止揚する

Heavy RainQuantic Dream)

・2009年の『アンチャーテッド2』が壮大なアクションアドベンチャー映画の世界を作り上げたように、2000年代の終わりにゲームはナラティブの重視に回帰した。
・クアンティック・ドリーム社は『ヘビー・レイン』以前にもシナリオ重視のゲームをてがけてきたが、いずれもシナリオの野心がゲームメカニクスの質を上回り、そのアンバランスのせいであまりヒットを記録してこなかった。
・ディレクターのデイヴィッド・ケイジは本作を「インタラクティブ・シネマ」であると説明。シネマティックなゲームにおける最大の欠点は物語があまりにリニアで硬直的なこと。ケイジはそこに挑んだ。「『ヘビーレイン』は、映画の体裁をとりながら、ビデオゲームならではの個人的な経験を提供する、輝かしいハイブリッド作品である。
・ケイジはロード&リロードを推奨しない。一見、プレイヤーの失敗に思える展開になってもゲームオーバーにはならずそのまま進行していく。このことがまた「映画的な体験」の質を高めている。
・『ヘビー・レイン』の冒頭はアンチ・ゲーム的。プレイヤーは朝起きて、ヒゲを剃り、歯を磨き、シャワーを浴び、身だしなみを整え、コーヒーを飲まなければならない。一応操作のチュートリアル(コントローラーに割り当てられたアクションも場面の状況に応じて変化していく)も兼ねているものの、「ビデオゲームは楽しむものである」 という一般的な哲学に反したゲームデザイン
・コントローラーでのアクションは実際に画面内で行われるアクションと連動している(包帯を巻く時にアナログスティックをぐるぐる回転させるなど)。
・ゲームに組み込まれたQTEシーン。アドベンチャーゲームで選択に時間制限のあることはあまりない。*42
・『ヘビーレイン』では著者の用語である Power Gaming(ゲームでプレイヤーが物語的な一貫性よりも攻略のための効率性を重視することによって生じる物語上のズレ。『ウルティマIV』の章を参照)の可能性を完全に排除している。ステータスやレベル、アイテムなどはなく、(現実の日常がそうであるように)細かい行動によっていちいち報酬が与えられたりはしない。『Dear Esther』や『Facade』といったインディーのテクニックを商業ゲームに組み込んだ例。
・しかし、一方で、プレイヤーの選択は物語の方向性に影響を与えていく。『ヘビー・レイン』ではチャプターごとの行動の影響が次のチャプターに持ち込まれることはないが、いくつかの選択は長期的な変化をもたらし、ラストシーンにもいくつかのバリエーションを生じさせる(エピローグは30ほどのバリエーションがあるらしい)。「たとえ選択肢の多くがそれを取り巻く選択肢を定義する以外には大きな影響を及ぼさないとしても、高度にパーソナライズされたナラティブを作り上げることができる。戯曲はすでに書かれているかもしれないが、プレイヤーはその意味を定義するドラマトゥルク*43なのだ。」*44
・本作ではプレイヤーは4人の別々の主人公を操作していく。この多視点は物語全体をより俯瞰的にする。さらに4人のうち誰かが欠けてもストーリー全体を進行させることが可能な構成なので、プレイ次第では4人のうち誰かが死ぬことにもなる。これはかなりショッキング。ゲームで軽んじられてきた死の重みをプレイヤーは痛感する。
・「私が知る限り、『ヘビー・レイン』は、プレイヤーの死に永続性を持たせナラティブを継続させた初の商業ゲームであり、ゲームのナラティブにしばしば欠けているドラマチックな重厚さを生み出すための重要な一歩を踏み出した作品だ」。原注:「『You Only Live Once』というダンジョン探索ゲームは、『Heavy Rain』がリリースされる前にこのモデルを実験的に使用していた。http://www.zincland.com/7drl/liveonce/
・『Deus Ex』でもプレイヤーの選択に多様性をゆるしていたが、選択の結果はたいがいポジティブなものだった。『ヘビー・レイン』ではネガティブな結果やプレイヤーの失敗を許容している。
・「どのようなメディアでもパワフルなストーリーを体験することはできるが、パワフルな選択をすることができるのはゲームだけなのだ」*45

■結論

・『ヘビー・レイン』では多くのプロットホールが指摘され、脚本の質の悪さが非難されているが、著者はそれは大きな問題ではないと切り捨てる。「本書からひとつだけ受け取ってほしいことがあるとすれば、 それは、ビデオゲームストーリーテリングには(物語的な)内容以外にも多くの要素があるということだ」
・たとえば著者は『Grim Fandango』をもっともすばらしいストーリーを持つゲームのひとつとして認めているが、本書では取り上げてはいない。ゲームそのものは既存のアドベンチャーのバリエーションにすぎないからだ。「素晴らしい物語について新しい発見などは存在しない。有史以来、あるいはその以前から物語や語り手たちがあっただけだ」「ビデオゲームがこれほどエキサイティングなのは、それらが素晴らしい物語を語るからではなく、異なる仕方で語られるからである。その短い歴史の中で、ビデオゲームというメディアは、ナラティブにおいて相当数の実験を行なってきた」
・ゲームの脚本や演技の質が悪いのはそのとおりだが、しかし、それでもってゲームの物語を否定するのはその可能性を塞ぐことでもある。
・「トリスタン・ドノヴァンが自身の著書(『Replay』)の結びで述べているように、『ビデオゲームはいまだに、その歴史がいまだ終わっていないかのように感じられる芸術形態』なのである」
・「「いつになったら、このメディアが持つユニークな特質を最大限に生かしたゲームが生まれるのか」という暗黙の疑問は、さらに愚かなものだ。すでに一本だけでなく、何百本も生まれている。問題は、"いつこのメディアが何かを成し遂げるか?"ではなく、"いつこのメディアが、すでに成し遂げたことが広く認知されるか?”なのだ。

■補遺

・本編でとりあげられなかったタイトルとして『Another Wolrd』(1991)、『Civilization』(1992)、『Myst』(1993)、(タイトルにもなっている)『A Mind Forever Voyaging』(1995)、『Fallout』(1997)、『Grim Fandango』(1998)、『Thief: The Dark Project』(1998)、『ファイナル・ファンタジーVIII』(1999)、『フロント・ミッション3』(1999)、『聖剣伝説 Legend of Mana』(1999)、『The Longest Journey』(1999)、『Planescape: Tonament』(1999)、『Baltur’s Gate 2』(2000)、『The Operative: No One Lives Forever』(2000)、『エースコンバット04:シャッタード・スカイ』(2001)、『Max Payne』(2001)、『サイレント・ヒル2』(2001)、『The Elder Scrolls III: Morrowind』(2002)、『Half-Life 2』(2004)、『Vampire: The Masquerade—Bloodlines』(2004)、『Killer7』(2005)、『Barkley, Shut Up and Jam: Gaiden』(2008)、『Sleep is Death』(2010)をメンションし、簡単な評を述べている。
・ちなみに補遺では本編で紹介した13作品を遊ぶ方法を紹介しているが、半分くらいは「海賊版でくらいしか遊べねえ〜」と愚痴っている。今はだいたいリマスターとかリメイクとか出ていて入手が易化していますが。

*1:たとえば渡辺範明の『国産RPGクロニクル ゲームはどう物語を描いてきたのか』などは、『ファイナルファンタジー』と『ドラゴンクエスト』の二大JRPGに関する語りとしては大変におもしろいのだが、「”どう”物語を描いてきたのか」という副題に反して全面的にストーリーテリングに焦点を当てた本かといえば断言を躊躇われる部分もある

*2:他にも「物語」に該当する単語としては「tale」も出てくる。

*3:ここのあたりは他のゲームの歴史関係の本とも重複する部分

*4:テキストのみで展開されるアドベンチャーゲームのこと。当時の技術的な制約から生まれた形式で、現在では商業的にほぼ絶滅しているが、個人制作のインディーゲームでごくごく稀に見出される。

*5:北米でポイント・アンド・クリックが流行ったあとも(『クロックタワー』などの極一部の例外を除き)日本のゲーム市場はグラフィック・アドベンチャーに注力しつづけた。これはおそらくPCゲームが昔から強かった欧米圏に比べ、日本においてコンソール機が圧倒的に強かったために、マウス操作での「クリック」に適応しづらかったせいではないかと思われる。とはいえ、日本でも90年代初頭から『弟切草』(1992)から始まるいわゆる「サウンドノベル」が勃興したおかげでジャンルとしてのアドベンチャーは隆盛を迎えた。一方、80年代から存在したアダルトゲーム分野でのアドベンチャーも90年代に『同級生』(1992)といった美少女ゲームへと発展していき、のちに同人文化も取り込みながら、現在の日本におけるビジュアルノヴェル文化の下地を作り上げた。というのが、だいだいの自分の理解。

*6:wikipedia によると84年の Enchanted Sceptors が始祖とされ、ディジャヴがそのスタイルを完成させたという

*7:日本では堀井雄二が1983年に『北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ』で行動のコマンド選択制を採用した。

*8:ルーカスアーツの起源がいわずとしれた映画人ジョージ・ルーカスであることはゲームの歴史において注目に値する

*9:元は詩人であるコールリッジの提唱した文学用語。ゲーム分野でもホイジンガ/サレン&ジマーマンの「マジックサークル」概念と共によく使われる

*10:ちなみに英語版 wikipedia の「アドベンチャーゲーム」の項目によれば、90年代には旧ソ連圏の国々でいくつも人気のアドベンチャーシリーズが生まれていたそう。比較的技術力を必要としないジャンルであったおかげか。

*11:エピソード型配信はその後も一部のアドベンチャーゲームで受け継がれた。代表的な例が Don’t nod 社の『Life is Strange』シリーズ

*12:ポイント・アンド・クリック式のゲームは2020年代以降もインディーを中心に細々と継続している。ちなみにポイント・アンド・クリックは幅は意外と広く、主観視点だったり3Dだったりも入ることがある。私見では Monkey Island 的な90年代フォーマット(サイドビュー2D)を受け継いだ現在のポイント・アンド・クリックはふたつの志向に大別されると思われる。ひとつはポイント・アンド・クリックのフォーマットを用いつつ、(主にアニメーション方面での)アーティスティックなビジュアルを印象付ける作品。Samorost(2003)や Machinarium(2009)を開発したAmanita Design​​社の諸作や The Many Pieces of Mr. Coo​​(2023)などに代表される。もうひとつは90年代的な作法をハードコアに継承したオールドスクールタイプで、こちらは Wadjet Eyes Games が開発/プロデュースする諸作品や先日惜しくも解散してしまった Daedalic EntertainmentのDeponia(2012〜)が含まれる

*13:ホーキンズはAppleの最初期の社員であり、その株の売却益でEAを設立した。そのよしみで、顧問にスティーブン・ウォズニアックも招聘したこともある。

*14:近年でも『Citizen Sleeper』(2022)などはこのあたりの精神性を受け継いでいるように思われる

*15:日本におけるツクールや吉里吉里によるフリーゲームブームと似たようなムーブメントがあったっぽい。

*16:オープンワールドRPGで行動によって街の人々や特定の勢力に属するひとびとからの応対が変わったり、エンディングの分岐に関わったりする的なやつが多い。有名どころでは『Bioshock』、『Metro2033』、『Dishonored』、『inFamous』、『Baldur’s Gate』、『ダークソウル』、『オブリビオン』、『Fallout』シリーズ、『Mass Effect』シリーズ、ちなみに日本のゲームで有名なのは『真・女神転生』シリーズ、『タクティクスオウガ』で主人公に対する民族ごとの友好度を表した隠しパラメータのカオスフレーム。

*17:そうしたゲームのひとつがまさに本書の出版年に発売された『Spec Ops: The LIne』(2012)だろうか。「倫理的な難問の選択」は2010年代の主要なトピックのひとつとなり、そこから『The Last of Us』(2013)、『Life is Strange』(2015)、『Detroit: Become Human』(2018)などの時代を代表するゲームが生まれた。またインディーではさらに多様で繊細な問いかけを行うゲームが多数リリースされている。

*18:当時高校生だったスティーブ・コリー、グレッグ・トンプソン、ハワード・パーマー​​の三人が学校のプログラムを利用して訪れていたNASAのエイムズ研究センターで開発した。

*19:同時期の74年にSpasimという同じくワイヤーフレームで一人称のシューティングゲームが発表されている。一人称ゲームの祖先はこの二つとされることが多い。

*20:吉田寛の『デジタルゲーム研究』では80年代の一人称ゲームの代表例として1981年の『ウィザードリィ』も挙げられている。これも当時はワイヤーフレーム。「一人称視点は『ウィザードリィ』のようなダンジョン探索型のロールプレイングゲームにも採用されてきた。この視点は迷路や迷宮と相性がいいのだ」

*21:要するにAR的な視覚

*22:wikipedia によると17万本で、赤字だったとのこと

*23:ウォーレン・スペクターが提唱したイマーシブ・シムは、ジャンルとしてはその後『Dishonered』などの出現で盛り上がりをみせたものの、2010年代後半にはオープンワールドに食われて陰が薄くなった。オープンワールドなんでも食いすぎ問題。参考記事:『Dishonored』『BioShock』など自由なゲームプレイを実現し、一時代を築いた人気ジャンル「Immersive sim」が直面する存続の危機とは - AUTOMATON

*24:日本でもFFVIIが「映画的表現」を切り拓いたという指摘はよくなされる。しかし、そこは北米のプレイヤーの言う「映画的」とは少しズレがあるというか、没入感という観点を切実なものとして引き受けている北米人とは似ているようで微妙に異なったニュアンスだったのではないか。

*25:関西人のギャグだろ

*26:アメリカでは任天堂のサービスが有名だった

*27:それはともかく、小島秀夫がゲームにおいて「映画」を志向しているかどうか、というのはファンのあいだでも見解がそれなりに分かれるところで、わたしも日によって意見がころころ変わったりもする。たしかなのは小島秀夫が自身の語るようにゲームのない時代に映画で育った非ゲームネイティブな世代のクリエイターであり、アイデンティティと紐づいて参照できるメディアが映画に寄っていることだ。小島はしばしば自分はゲームクリエイターなのだからゲームはゲームとして作るといったようなことを述べる一方で、「今度のゲームはマジで映画です」などと相反することも平気で言う。それは別に本性がテキトーな関西のおっちゃんであるというのもあるのだろうけれど、彼より上の年齢層にも下の年齢層にもなかった「ゲームがギリギリ映画的な表現に近づけるようになってしまった世代」特有の複雑さもあるのではないかとも思う

*28:『ハーフリアル』や『ビデオゲームの美学』でも参照されてるやつ

*29:このへんはゲームスタディーズ関連の本を読んでいるとよく出てくるルドロジー vs.ナラトロジーのあたり

*30:昔のゲームはチュートリアルではなく説明書で操作法やストーリー背景を提供することが多かった。『Planetfall』などのinnfocomのゲームにはfeeliesと呼ばれる実在感を高めるためのオマケ的な小物までついていた

*31:これは当時における技術的な限界も関係していたのだろう。いくらリアリズムを超えるシームレスな映像体験であるとはいえ、MGSやHLのようなローレゾのポリゴンでは没入感に対する信仰はプレイヤー自身のゲーマーとしての信仰心に依存する。やはり没入感を持続させるためには現実感のあるグラフィックも重要で、その両立がようやく達成されるようになったのがPS4/XboxOne以降なのではないか。2020年代の現在ではAAAタイトルではシームレスなカットシーンやカットシーンを要さないゲームプレイを持った作品のほうがむしろ主流。

*32:同じSEGAでこうした要素は『龍が如く』シリーズへと継承されていく

*33:ここでいうリアリズムは前章のHalf-LifeでのImmersionと対比させる意味も込められているのかもしれないが、はっきりしない。

*34:その後、『シェンムーIII』が発売された。それはともかく一日の生活パターンが定まったNPCたちは『デッドレッドリデンプション2』をはじめとして今やオープンワールドRPGではふつうに採用されているし、『シェンムー』的な「観察」の精神性は本書の後半でも触れる『Dear Esther』などのウォーキング・シムの一時の隆盛を経て、やはり大作オープンワールドRPGなどに組み込まれていったように思われる。

*35:ブレワイとかでもてはやされるようになった「ひとつの課題に対して解決法が複数ある」ってやつ

*36:プレイヤーにとって個人的な経験として受け取られること。西洋的なCRPGオープンワールドTRPGへの回帰というか、あいつらって結局TRPGがやりたいだけじゃねえの? という認識は最近日本でも広まってきたと思うけれど、それは「自由な選択による」「個人的な経験」をしたいという欲望に貫かれているのではないか、とこの記事を読んで思いました。そこに「レベリングさえすれば誰でも同じストーリー(=体験)を享受できる」がコンセプトのJRPGと対置すれば綺麗に収まるな〜ともおもいますが、しかしJRPG的なるものはふつうにウエスタンでも人気なのではあるし、CRPGはともかく大作オープンワールドは日本でも然り。小説や映画がそうであるように、プロダクトとしてはマスなものであったとしても受容の体験はパーソナルなものであることっていくらでもあるのだし。う〜ん。

*37:やや皮肉気味なところがあるけれども、まともに受け取るならかなり疑問が多い。わたしたちは続編が前作の欠点を改良したり効率化することがないことを知っているし、なんなら悪化することさえある。

*38:これは、そう

*39:結果的に著者の予想はピンズドで当たった。メンタルヘルス的な題材はインディーゲームでトレンドとなり、やがてAAAタイトルにも取り入られるに至った。また、インディー分野から野心的な短編ゲームが多く出たことはたしかに業界のイノベーションを刺激した。大手が「積極的なイノベーション」を回復したかはまだ留保するところもあるだろうが

*40:たしかにもっとも基本的なゲームの定義ではある。『Dear Esther』の場合はボタンやドアといった触れて動かせるオブジェクトが(記憶するかぎり)ほとんどない。そして、こうしたデザインはウォーキングシムの基本となり、VRChatといった初期のVR世界(こちらは制約として存在した面が大きいが)にも影響を及ぼしていった。

*41:非競争あるいは非暴力的なゲームもまた現在のゲームのひとつのトレンドであると考えられている。Wholesome Direct のような非暴力ゲーム専門のショーケースがSteam上で組まれてもしている

*42:ちなみにQTEは現代のゲーマー受けがすこぶるわるいメカニクスのひとつだ。それは『ヘビー・レイン』の日常動作のように「ボタンを押すことが画面内のキャラの動作と連動してない」ことで没入感の断絶が生じてしまうせいもあるだろう。クアンティック・ドリーム作品が受けているからといって安易に取り入れるとそうなる。

*43:演劇などにおいて文芸面や設定面などの監修や補助を行う役職

*44:ここにもパーソナライズ=個人化という単語が出てくる。

*45:こうした『ヘビー・レイン』のデザインを基盤にクアンティック・ドリームはインタラクティブ・シネマの可能性を希求しつづけ、『Detroit:Become Human』に結実する