最後の短篇企鵝の剥製

読んだ短篇についての雑な覚書を書くペンギンは絶滅しました。本博物館では、在りし日のタンペンペンギンの姿を剥製によって留めています。

Ottessa Moshfegh, "No Place for Good People"(2014)

(タンペンペンギン、フーターズでご満悦)


・初出は Paris Review


■妻の死から一年が経ち、64歳のラリーはようやく新しい仕事を始めた。成年発達障害者施設での介添人(companion)だ。彼はポール、クロード、フランシスの10代〜30代の入居者たちを受け持つ。特にポールはやけにポルノにオブセッションがあり、ラリーも手を焼いていた。あるとき、ポールの誕生日祝いに彼の希望でフーターズへ出かけることに。ラリーは以前一度だけ、50歳のときに義父に誘われて行ったフーターズのことを思い出す。そうして死んだ妻のことなどをつらつら思い出すのだが、一方、街に到着してみるとフーターズは潰れて、代わりに家族向けファーストフードチェーンのフレンドリーズが建っていた。「フーターズじゃないと嫌だ」と不満を垂れるポールを「ここもナイスなウェイトレスがいるし、フーターズと変わらないじゃないか」となだめすかすラリー。彼はポールの美意識なき物質主義に亡き妻と似たものを感じる。なんやかんやで誕生日の食事会は終わり、帰宅したラリーはまた妻のことを想う。


フーターズ小説である。一見すると喪の物語であるようにおもわれそうだけれど、「妻が死んで初めて、彼女に対する自分の愛の薄さを知った」とか言ったり、勝手に夫名義のメッセージカードつきで豪奢なものを買う妻を苦々しくおもったりしていて意外と愛情に欠けている……と思いきや初めから終わりまでしつこく想起するのでやはり喪の物語なのかもしれない。
他のいくつかのモシュフェグ短篇同様、この作品にも「性的なるものの(奇妙な)欠落」が見える。たとえば、ラリーが世話している三人のうちの最年長であるポールはポルノに興味津々で、シモネタジョークを連発し、ベッドにポルノ雑誌を溜め込んでいる。しかし、ラリーが「ポールがセックスの意味を理解しているのか疑わしい」というように、それらはあくまで作中ではアピールとして捉えられていて(少なくともラリーには)真剣なものではない。*1つまりはポールは”男性的な機能”が欠落しているにもかかわらず男性的な振る舞いをしたがる人として描かれている。
かたや、語り手たるラリーは十数年前の時点で「すでに女性に対する興味をなくしていた」と言い、義父につれていってもらったフーターズでも上の空だった。フーターズ店員のピチピチな装い(トップスには「wifebeater(妻をぶつ夫)」とまで書かれている)で、義父に「Be a Man! 娘のことは気にせず楽しめよ! このへんフーターズほどいい場所はないぞ!」と励まされるラリーは「フーターズは善きひとびとのための場所ではない(Hooters was no place for good people.)」と考える。フラナリー・オコナーみたいなペシミスティックなタイトルだとおもっていたら、その回収がフーターズとは前代未聞ではなかろうか。それはともかくそんなラリーだから、フーターズに行くのは気が進まないわけだけれど、ポルノ愛好家のポールのために付きそう。ちなみに「父親になることを夢見ている(が、動物のぬいぐるみと絵本をおばに差し入れてもらっている)」クロードがついてくる一方で、19歳の気むずかしやのフランシスはおするばんを選ぶのも示唆的だ。
で、ついてみるとフーターズはフレンドリーズに入れ替わっている。ポールは「フレンドリーズなんてお子様向けじゃないか」とご立腹なのだが、ラリーは「フーターズもフレンドリーズもカラフルなプラスチックでいっぱいだし、客層はダサくてキモい(tacky)のばっかだし、似てるな」などと考える。たしかにかぎりなく抽象化すればどちらもファストフードチェーンなのかもしれないが、ポルノ的な要素の有無は一般的にいえばかなり大きい。そこを大して変わらないと思えるラリーは性(ついでに愛も)が欠落した人物として描かれて、そこが死んだ妻に対する態度にも現れているかもしれない。
奇妙なのはラリーがポールと亡妻に相似を見出すところだ。ラリーが不満を募らせるポールに対して「ほら、フレンドリーズだって美人なウェイトレスがいるし、フーターズとかわらないよ」となだめると、ポールは「フーターズのほうがもっと美人がいるやい」と反発する。そんなポールについてラリーは内心「ポールがフレンドリーズとフーターズの違いを指摘できるか疑問だった。彼は美の基準を知らない」と大変失礼なことを考え、そこで「ポールは物質主義的だ。私の妻のように」と妻を連想し、生前の彼女の浅薄さを思い出していく。
ラリーの回想のトリガーやリンクは脈絡があるのかないのかよくわからないのだけれど、ふしぎと彼のキャラクターからすれば一貫しているようにも見える。性という要素を抜き取ったときに性別を超えて一見ぜんぜん遠いところにありそうな二人の人物がつながるというのは、なんだか曲芸のようというか、通るんだそこという謎の感動がある。

*1:障害者の性が取りざたされる昨今の本邦の事情を鑑みるとどうなんかなあとは思う