最後の短篇企鵝の剥製

読んだ短篇についての雑な覚書を書くペンギンは絶滅しました。本博物館では、在りし日のタンペンペンギンの姿を剥製によって留めています。

Kevin wilson, "Kennedy"(2019)

(もちろんペンギンたちもビデオゲームがだいすき!)

【概要】

・8500ワードほど。
・初出は Subtropic
subtropics.english.ufl.edu

・Mariner Books の2020年度の年刊短篇傑作選に選ばれている。ちなみに翌年も同社の傑作選に"Biology"で掲載。
・語り手が(おそらく)1990年前後の高校生時代を回想する。語り手はベンという日系人の少年と親友で毎日ビデオゲームをして遊んでいたが、あるときいじめっこ(というよりは暴力的な厄介もの)のジョン・F・ケネディという少年に目をつけられ、それがきっかけでベンとの幸福な日々が崩壊してしまう。
・前述の傑作選で一度読んでいたけれど、ケヴィン・ウィルソンの短篇(サイズ的には中編では?)では最高傑作ではないかとおもったのでもう再読してここで紹介する。


【あらすじ】

 コールフィールドという小さな街に住む語り手(ジェイミー)は、唯一の親友のベン(名字はナカムラ)と毎日家でテレビゲームをして遊んでいた。彼らはこづかいのほぼすべてをゲームに費やしており、当時(おそらくアラウンド1990年)販売されていたゲームハードをほとんど所有するほどにのめりこんでいた。
 そんな彼らがある日、美術のクラスでジョン・F・ケネディという少年とグループを組まされる。ケネディは暴力的な問題児で、課題の制作中もふたりを悪質なわるふざけを繰り返して邪魔したりなんかしてとにかく怖い。ふたりは心を無にしてケネディの攻撃を耐え忍ぶ。
 課題はなんとかこなしたものの、今度はケネディがふたりといっしょにゲームをしたいといい出し、語り手の家へ押しかける。しかし、ケネディビデオゲームをやった経験がないという。語り手がどういうゲームで遊びたいかと尋ねると、彼は「人を殺せるゲーム」と答える。
 そうして、語り手とケネディは『魂斗羅』の協力プレイをすることに。しかしケネディはすぐにゲームオーバーになってしまう。そしてゲーム中で仲間を攻撃できることに気づくと、語り手のキャラを毒づきながらひたすら攻撃しだし、挙げ句に「こんなもんつまらん」とコントローラーを放り出す。
 結局、語り手はいつもどおりベンとふたりでゲームをやるが、その様子を眺めていたケネディが突然ベンを押し倒して枕を顔に押しつけ、驚いた語り手がケネディにタックルするとヘッドロックで返し、「こっちのほうが楽しいぜ」と空虚な声で言う。「おれと兄貴はずっとこういうレスリングで遊んでた。おたがいをぶちのめそうとしていた。でも兄貴が軍隊に行ってから、おれは家にひとりだ。おれはバカやりたいだけなんだ」という。
 語り手がケネディを家に帰そうとすると、逆にケネディの家に誘われる。しぶしぶふたりでケネディの家にあがると、そこには無精髭の元軍人の父親がリクライニングチェアに座って、テレビでボクシングの試合を観ていた。どうも息子との関係に険悪なものがある。
 ケネディは自分の部屋でふたりにSMグッズのコレクションを披露し、その手錠で語り手を裸にしてベッドに縛り付け、ムチで打つ。語り手の悲鳴を聞いてケネディの父親が駆けつけ、息子を締め上げて語り手を解放するように命じる。語り手は茫然自失の態で帰宅し、夜中に突然目が覚めて『スーパーマリオブラザーズ』を朝までプレイする。
 翌日、学校に行ってみるとケネディの姿はなかった。ベンとの関係もぎくしゃくして、ほとんど会話しなくなる。ふたりで放課後にゲームで遊ぶこともなくなる。
 そのまま三日が経過し、四日目にケネディが全身ボロボロな姿で登校してくる。そして、語り手とベンに「見せたいものがある」とまた家に(脅すように)誘い、去る。
 ベンと語り手はケネディの家に向かわないことを決心し、ひさしぶりに語り手の家で遊ぶことにする。『ダブルドラゴン』をひとしきり遊んだのち、語り手はベンに「きみはぼくのいちばんの親友だ」と告げる。ベンは「きみもだよ」と返す。
 その日の夜、家族やベンといっしょに夕食をとっていると、ケネディから電話がかかってくる。
「おまえ、けっきょく来なかったな」と哀しそうな声でいう。


「さっき父さんを撃った。ショットガンで」


「マジでやったんだよ。あれをおまえらに見せたかったんだ。おまえに見てほしかった。三人全員であそこにいたかった。でも、おまえはこなかった」


 ケネディは警察に連絡したという。


「来てほしかった。おれはおまえらのことが好きだったんだ。おまえとベンのことが。おまえは『大丈夫)(OK)』だとおもってた」

 
 語り手は部屋でベンに電話内容について話し、泣き出す。ベンが語り手を抱きしめる。語り手はケネディがほんとうに父親を撃ったことを願う。そうして、二度とかれらのもとに戻ってこないことも。
 ベンと語り手はたがいに抱きしめあって泣きながら「sorry」と謝りあう。
「ぼくたちはなにを謝っていたんだろう? たがいを守れなかったこと? たがいの安全を保てなかったこと? でも、ぼくは彼が申し訳なくおもっていることを知っていた。彼もぼくが申し訳なくおもっていることを知っていた。そして、彼はぼくを抱きしめていた。ぼくも彼を抱きしめていた。そのときのことをいつも想う。ベンは今どうしているだろう。彼はなにをやっているのだろう。あの出来事についてどう考えているだろう。彼がいなくて、とてもさびしい。」


【感想】

ジョー・ヒルの「ポップ・アート」に比肩する、少年時代ものの短篇の傑作。
・語り手とベンとの間ではビデオゲームを通じてケアしあうことで友情が築かれる一方、ケネディにはそういう形の友情構築のやりかたが理解できず、「兄とやっていたレスリング」すなわち互いを傷つけあうような暴力でしか関係を結べない。おそらくケネディと父親とのコミュニケーションも似たようなものだったのだろう。そうしたケディ-語り手&ベン間での言語の齟齬が悲劇へと発展していくのが痛ましい。
・「ポップ・アート」を引き合いに出したのは、「ポップ・アート」にこんなセリフがあるからだ。”友だち同士のあいだでは、とくに男の子同士の場合には、相手に一定量の苦痛を与えることも許される。相手にそれを期待されてさえいる。しかし、深刻な傷を負わせてはいけない。どんな状況においても、永遠に消えない痕が残るような傷をつけてはならない。
・そういう”男の子”的なコミュニケーションがどこかでネジが外れてしまったのがケネディという存在なのだろう。
・語り手とベンも”痛み”を抱え込むところがある。序盤で語り手とベンが『魂斗羅』を遊ぶ画面が描かれるのだが、それはこんなふうに語られる。「無限ライフの裏技を使うと、完全な無感覚の状態(numbness)となり、なにかの機械に自分たちの脳を接続したように目から生気を失い、集中力のすべてと引き換えにぼくたちを幸福にし、身体を氷のように冷たくしてくれる。」
 ほとんど自傷行為のようだ。
ケネディはあきらかに病んでいるし、語り手やベンも実はどこか病んでいる。それらは異なる形態ではあるものの「痛み」という形で表現される。その傷が癒やされることはない。
・ゲーム小説としてもすばらしい。当時のタイトル、『魂斗羅』『スーパードンキーコング』『スーパーマリオブラザーズ』『ダブルドラゴン』などが次々と出てきて、ベンと語り手がRTAのはしりみたいなことをやるシーンもある。作劇の道具としても効果的に用いられていて、ベンと語り手にとってゲームとは逃避でもあり、たがいにつながるための手段でもある*1。このへんはたびたびゲーム要素を扱う作者の面目躍如的なところ。
・それにしてもウィルソンはやっぱり日本人要素いれたがるな。何由来のオブセッションなのか。
・なぜケネディの名前が「ジョン・F・ケネディ」なのかはちょっとうまくとれなかったな。「アメリカ」であることが欲しかったんだろうか。ちなみに劇中で語り手はずっとケネディを苗字呼びしている。



*1:このあたりは『地球の中心までトンネルを掘る』に収録されている「モータル・コンバット」とも似ている